日本の古本屋メールマガジンで南陀楼さんが「『本のすき間』を探る人」と名付けてくれた。これは、物理的に本と本の間に挟まった小冊子等を掘り出すという意味だけでなく、雑書や日記の記述の中から研究者も気付いていない情報を見つけるという意味も含めているのだろう。さて、塩田良平『妻の記』(現代文藝社、昭和32年12月3版)の「少年行」から塩田と宮武外骨の知られざる関係を見つけたことは「水田紀久先生旧蔵の塩田良平『妻の記』で知った塩田と宮武外骨の関係に驚いた」で紹介した。今回は、塩田の父塩田宇沢の発見である。
その頃父は再び元気をとり直して、もう還暦はすぎてゐたのだがもう一度働き直すといつて再び大井町から引上げて、一時麹町に移り、更に明治初年以来住んで居た牛込に戻つて、谷町に居を構へて医師を開業した。父は浅田宗伯門下であつた関係から漢法を得意としたのであるが、宗伯死後漢法のみで処すのは難しい事を悟り済生学舎に学び洋医となつて横浜で開業してゐたことがある。しかし牛込に再び戻つてきた頃は、食療法の石塚左玄の次代右玄と親しんで専ら昔日の漢法療法に食療養法を加味した独特の診療を開始した。
(略)
かうして父は六十四五歳から七十五六歳まで見違へるやうに丈夫になつて働いた。この間に石塚右玄と合著の「食物療養[ママ]法」を著し、自身でも食養法上下を著した。別に漢詩文集「澎[ママ]水詩存」一巻がある。父は茨城県の郷士の次男坊で秋葉大五郎といつた。幕末に笈を負うて上京し浅田宗伯門下に加はり、認められて宗沢を命名されその姪を室として塩田姓を名乗つたが、水戸の血を受けて頑固であつた。(略)
平成23年に福井県ふるさと文学館に行ったが、郷土の偉人コーナーのような所に石塚左玄があって驚いたことがある。右玄は左玄の長男で、明治18年3月30日生、大正15年4月8日没である。右玄には『石塚式食物治療法』上巻(石塚食療所編輯部、大正10年4月)の著作があって、「はしがき」に「下巻は目下着々是れが脱稿に努めつゝあります」とあるものの、下巻の刊行は塩田宗沢名義で食養会事業部から昭和6年1月に刊行されている*1。また、宗沢の『彭水詩存』(塩田良平、昭和7年)は「日本の古本屋」に出品されていて、あきつ書店ほか1軒が2万円以上付けている。
色々調べて、ようやく『日本医療録 附録、医学博士録、法規』(医事時論社、大正15年12月2版)で宗沢の経歴が確認できた。
塩田宗沢 市ヶ谷谷町五一 内科 石塚食療所 安政三年一月十四日生 明治十七年(登)五四三号 同十七年ヨリ四二年迄横浜市ニ開業卅年ペスト病流行ニ際シ其予防撲滅ニ盡力セシ功ニ依リ県知事ヨリ木杯ヲ下賜セラル大正八年末石塚右玄氏ノ許ニ故石塚左玄翁ノ化学的食物療法研究中
かつて黒岩比佐子さんは、『『食道楽』の人 村井弦斎』(岩波書店、平成16年6月)で弦斎より前に左玄が「食養医学」や「食育」を提唱していたことに言及している。生きておられたら、左玄の長男右玄と塩田良平の父塩田宗沢の関係に驚いてくれただろうか。
- 作者: 黒岩比佐子
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