神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

『杉浦明平暗夜日記』で森谷均の昭森社が悪口を言われていた

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昭和44年3月29日昭森社の創業者森谷均は亡くなった。4月3日に青山斎場で開かれた友人葬で神原泰が述べた弔辞が『本の手帖』別冊,昭和45年5月に掲載されている。

(略)森谷君は、絵を、彫刻を、詩を、文学を愛したが、更に人間を愛した。芸術を愛する以上に芸術家を愛し、芸術家を擁護し、援助した。(略)
森谷君よ、君を愛し、君を追慕する人は沢山あっても、君を憎み、君を恨む人は一人もいないであろう。天国がもし有りとするならば、それは当然君のものだ。
(略)

弔辞だから故人を悪く人はいないだろうが、同別冊を読んでいると、いかに森谷が詩人、作家、画家、学者、評論家、編集者などに愛されていたかがわかる。しかし、今回若杉美智子・鳥羽耕史編『杉浦明平暗夜日記1941-45 戦時下の東京と渥美半島の日常』(一葉社、平成27年7月)で戦時下の昭森社への批判を見つけた。

(昭和十六年)
十二月五日(金) 曇
(略)
寺島*1をたずねて、ダ・ヴィンチの出版について紙の特別配給について話した。係の花島*2というのに会ったが、昭森社はでたらめで全然信用がないから無理だろうと言った。私の原稿も印刷所から昭森社を経てそこへ来ていた。(略)
(昭和十七年)
三月十二日(木) 晴
(略)土方氏が出て来ていないので、昭森社の話はどうしようとしばらくためらったが、四時少しまえ胸を轟かせながら電話をして森谷に話した。きょうは昨日と反対に出来るだけ弱く、これ以上交渉をつづけてはこちらが神経衰弱になるから、ここで話を打切ろうと言った。向うも多少困ったらしいが、どなりつけもしなかった。(略)私の初めての出版であるから、本屋として不満だったけれど、きれいな本を出してくれるというので辛抱することにしていたら、何かしらこちらの立場を無視するどころか駆引ばかりして、とうとう私をじらじらさせてしまった。(略)
三月二十五日(水) 晴
(略)帝大病院附属図書室の三輪*3をたずねて(略)丁度そこに来ていた不二書房と北川桃雄氏*4昭森社のことをこぼすと、二人とも昭森社の評判のよろしくないことを言っていた。
(略)
四月十五日(水) 晴
(略)
昨日のことだったか、新聞にレオナルド・ダ・ヴィンチ*5の記事がのっていた。(略)それにつけても私の本が出ていたら、相当な売行を示しただろうと、あんな昭森社のようなインチキ本屋に渡したことが腹立たしかった。(略)

当時興亜院の嘱託で昭和17年9月に日本出版文化協会に移る杉浦が昭森社から出そうとしていたダ・ヴィンチの本は、同社から『近代日本洋画史』(昭和16年5月)を出し、杉浦とは興亜院で共に嘱託だった土方定一*6が仲介したものだった。杉浦が昭森社からの出版を取り止めた具体的な理由は不明だが、昭和10年創業の昭森社はまだまだ評判は良くなかったことが分かる。ただし、別冊の「昭森社刊行書目総覧」によれば、昭和17年には橋本平八『純粋彫刻論』など28冊刊行している。今後森谷の伝記を書こうとする人は、こうした資料も使って多面的に森谷を評価してほしい。
杉浦は17年6月3日昭森社から原稿を取り戻し、18年10月野々上慶一*7が勤めていた十一組出版部から『科学について』として刊行。この辺りの経緯は、岩波文庫の『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』の解説によると、

わたしがレオナルドの翻訳にとりかかったのは、イタリア語を勉強して何年もたたない一九四〇年ごろであった。そして戦争中、茂串茂君*8や秋元寿恵夫さん*9にたすけられて、この文庫の下巻と大部分において共通する訳著『レオナルド・科学について』を出版した。上巻の部分も大半は終戦までに訳し終っていた。

杉浦の日記は大正15年6月から平成5年3月まで杉浦家に保存されていて、本書では昭和16年から20年までの分が収録された。本書だけでも、田所太郎(日本読書新聞)、鈴木庫三花森安治品川力(ペリカン書房)、大橋鎮子(日本出版文化協会)、柴田錬三郎(同協会)、坂本越郎(同協会)、親しかった立原道造(昭和14年没)、堀辰雄福永武彦、小島輝正、生田勉、小山正孝などが出てくるので、未刊の日記にどれだけの情報が埋もれていることか。私が生きているうちに、第一高等学校や東京帝国大学文学部在学中の日記だけでも公開されてほしいものである。
参考:「昭森社の森谷均人生最後の年賀状
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杉浦明平  暗夜日記1941-45: 戦時下の東京と渥美半島の日常

杉浦明平 暗夜日記1941-45: 戦時下の東京と渥美半島の日常

*1:寺島友之。大正2年生。昭和14年東京帝国大学文学部国文科卒。日本出版文化協会に勤務後、中等学校教科書株式会社に転じる。杉浦の妻美知子の長兄。以下人名への注は編者のものを要約

*2:花島克巳。明治38年生。昭和4年東京帝国大学文学部仏文科卒。日本出版文化協会の文化局海外課主事補として図書の用紙割当担当。当時同課には武田泰淳も書記としていた。戦後も同協会渉外翻訳権室に勤務

*3:三輪福松。美術史家。明治44年生。昭和13年東京帝国大学文学部美学美術史科を卒業し、医学部附属図書館に勤務。戦後東京学芸大学教授

*4:美術史家。明治32年生。東京帝国大学文学部美学美術史科在学中の昭和15年鈴木大拙著『禅と日本文化』を邦訳して岩波新書として出版。戦後共立女子大学教授

*5:アジア復興レオナルド・ダ・ヴィンチ展」参照

*6:評論家。明治37年生。興亜院嘱託を経て北京燕京大学内華北総合研究所研究員。戦後神奈川県立近代美術館

*7:明治42年生。昭和6年早稲田大学専門部政治経済退学。本郷に文圃堂書店を開店。小林秀雄の懇請で『文学界』発行元となる。11年閉店し十一組出版部に勤務

*8:大正3年生。東京帝国大学在学中からイタリア語を習得して独学でダ・ヴィンチ研究に取り組む。卒業後日伊協会に就職。敗戦後間もなく病没

*9:医師。明治41年生。昭和13年東京帝国大学医学部卒業。結婚に際して日吉に立原道造の設計で家を立てた。19年5月陸軍臨時嘱託としてハルピンの七三一部隊に派遣