明治末から戦前にかけて田端に存在した天然自笑軒について色々情報が集まってきた。
まずは、「天然自笑軒引札」*1を書いた森鴎外の日記。
大正7年5月13日 月。驟雨。参館。往天然自笑軒。修賀古啓小祥也。
「賀古啓」は賀古鶴所の妻で、一年前に亡くなっている。その一周忌が自笑軒で開かれたということらしい。自笑軒では、芥川龍之介の死後、河童忌の法要が自笑軒の空襲による焼失まで開催されることになる。
坪内逍遥の日記にも出てくる。
大正7年10月17日 日高只一 来廿日 田端自笑亭小会の件につき来る
10月18日 日高 明後二十日の会延期
日暮里に住んでいた野上弥生子の日記には、
大正14年9月13日 朝鶴田氏来訪。引きつづいて大嶋氏来訪。お昼に自笑軒に招待する。大島氏法政の借金のことで(彼の義父平尾氏より)わざわざ来て下すつたのである。
この他、『文藝時代』1巻2号(大正13年11月)所収の「同人相互印象記(十月六日田端自笑軒に於ける同人会席上の寄せ書き)」に、名前のあがっているのは、片岡鉄平、南幸夫、川端康成、佐々木茂索、中河与一、酒井真人、加宮貴一、佐佐木味津三、鈴木彦次郎、十一谷義三郎、今東光、諏訪三郎、石浜金作、菅忠雄、横光利一、伊藤貴麿。
*1:「蛙鳴く田端の里、市の塵森越しに避けて茶寮営み、輭居のつれづれ洒落半分に思ひ立ちし庖丁いぢり(後略)」という内容。