『朝日ジャーナル』1962年1月7日号の座談会(正宗白鳥・広津和郎・小林秀雄・高見順)「明治・大正・昭和三代の文学・人間・社会」を読む。
高見 ぼくらの学生時分、たとえば下宿なんかなんにも払わないでいて、友だちが来ると客膳を出してもらってね、借金がたまると逃げだして、よその下宿へいって暮らせたんですけどね。
(略)
高見 武田麟太郎なんて、それの名人でしてね、しまいには下宿に常習犯として写真が貼り出されちゃったですよ。いまの凶悪犯人みたいにね。
広津 本郷区の下宿全部に貼り出すんだ。だけども、他区には通知しないんだから、他区の下宿にはいけるんだ。東京は広いから、それでも食っていけたんだな。(後略)
武田は、大正15年3月三高文科甲類を卒業、4月に上京して1年余りは本郷の長栄館に下宿していたとされるので、その後の話であろう。同じく下宿代を滞納した谷崎潤一郎の頃とは違い、昭和初期には名前だけでなく、写真まで貼り出されていたらしい(3月14日参照)。