神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

久米正雄「モン・アミ」の画家相澤八郎のモデル(その2)

小谷野敦久米正雄伝』の「あとがき」に、久米の趣味人としての側面をあまり描かなかったとある。そこであげているのは、スポーツ、賭け事、お祭りであるが、画家としての側面も含めているようで、同書に出てくるのは、大正8年1月10日から1週間、洋画の「一月会」の日本橋白木屋での展覧会に「山の湖」を出品(245頁)ということだけである。この記述だけでは不親切だと思われるので、私が補足しておこう。

同月13日付東京朝日新聞の「一月会寸評」によると、出品者は林倭衛、奥村博史、関根正二、増原咲次郎、萬鉄五郎らで、久米については「小説家久米正雄氏の「山の湖」を見るのは珍らしい」と評されている。実はこの画は、二科展用に描かれたものである。広津和郎が『年月のあしおと』(初出は『群像』昭和36年1月〜38年4月)の「本郷・八重山館時代」で、

(略)それは大正十年頃であったが、私は本郷五丁目の裏通の八重山館という下宿屋にいたことがあった。家の前に久米正雄が母堂と一緒に一軒構えていて、そこに大勢よく集った。(略)
その頃は久米正雄も絵を描いて、これは昔北海道を歩いた時*1の記憶で北海道風景を描くのだと云って、座敷の中で、二十五(ママ)号に湖と山の景色を描いたが、それを二科に持ち込んで落選したりしていた。しかし落選したのに、二科が開くと、その第一日目に出かけて行って、人の好い顔をしながら見て歩いているなどはいかにも久米らしかった*2
その八重山館には奈良に訪ねて来た上野山清貢が又たずねて来て、別の部屋にしばらくいたことがあったが、丁度久米がその北海道の絵を描いる時、関根正二が久米のところにやって来て、その絵を見ると「あ、違う、違う」と云ったのを、上野山もそこにいて聞いたと云って、上野山は私の部屋に入って来るなり、
「関根の奴、違う、違う、と云いやがった。これ以上辛辣な批評はないよ」と云って笑っていた。
しかし久米はその絵を井上正夫が五十円で買ってくれたと云って喜んでいた。

と書いている。久米がこの絵を書いていたのは、母を呼び寄せ、本郷五丁目四十三番地に家を持った大正7年4月以降、関根が亡くなる8年6月までの間のことになる。更にしぼれば、7年9月4日付東京朝日新聞に久米が前日二科会に三十号の『山中の湖水(ママ)』を搬入したことが出ているので、同年4月〜9月ということになる。なお、上野山が広津を奈良に訪ねたのは大正8年4月以降のことで、その後「又たずねて来」たというのは前後関係の間違いと見てよいだろう。また、広津はこの上野山や関根をめぐるやりとりを大正10年頃の八重山館時代としているが、全集の年譜も同年のこととしている広津の八重山館時代を3年も繰り上げるのは難しいと思われるので、大正7年の出来事*3を10年と勘違いしていると見るべきか。ただ、大正9年のはずの林倭衛との出会いも八重山館時代として書いているので、八重山館時代=大正10年は別途検証が必要だろう。

話を戻すと、久米は7年の東京朝日新聞の記事で、

私は
▲本式に稽古した訳ではない、私はセザンヌが好きだが此図はそれを追つたのではなく小説の自然描写をやるのと同じ心持で描いた。それで小説の原稿百枚書く時日を費したから其割合に勘定して百二十円の価格をつけた

と発言している。そもそも久米と絵との関わりだが、久米の「俳句と絵画とから得た利益」『文章世界』大正7年10月号によると、

私は中学生時代に随分水彩画を描いた。油絵を書き初めたのは、極最近であるが、兎に角、私のこの小さな経験から考へても絵を見る若しくは描くことは、文章を書く上に、得る利益は極めて多いと思ふ。

と書いている。単なる趣味に止まるものではなかったようだ。

「山の湖」が二科会へ搬入されたものの鑑査の結果落選したことについては、広津も書いているが、獏談生『現代流行作家の逸話』(潮文閣、大正11年9月)所収の「新進画家としての久米正雄君」でも取り上げられている。そこでは、三十号の「山の湖」はまんまと落選し、生兵法の油絵を止したのかと思えば、飽くまでも創作なぞはそっちのけに、絵筆に親しんでいるという*4。また、久米の

「この頃は小説が書けなくなつて困る。神経衰弱なんだね、だから画を書いてゐるのさ。絵は小さいやつより大きいやつが、完成率が大きいから気持がいゝ・・・」

という発言も記載されている。同書の「はしがき」によれば、大正7年10月から11年4月まで書き集めた文壇のゴシップを蒐めたもので、書いた年月順に並べたというが、久米の記事はトップなので、大正7年10月頃の話とわかる。この頃は久米が「破船」事件でどん底にあった時期であり、「神経衰弱」だったのももっともなことである。

さて、冒頭の一月会だが、荒波力『青嵐の関根正二』(春秋社、平成9年9月)の年譜によると、海老名文雄も出品者である。これにより、久米と海老名がつながった。海老名は戦後すっかり忘れられた画家で人名事典にも載っていないが、東郷青児の記憶には強く残っていたようで、既に紹介した「私の履歴書」のほか、鍋井克之との対談「二科会創立当時を語る」『美術手帖』21号、昭和24年9月で次のように語っている。

東郷 (略)話は変るが、第二回の時鍋井さんは二科賞だったでしょう、他に、海老名君もあったが、海老名文雄、この海老名は非常に奇々怪怪な人でしたね。三回の時は海老名は会員と並んで、同格で絵葉書が造ってあった。あの頃一番の人気者だった。
(略)
東郷 (略)やはり海老名のことになるが、彼が僕と佐藤*5と他に三四人ほど、四谷の荒木町で御馳走してくれたんだ、その翌日会場へ行くと正宗さんがシンコクな顔をして、「あれは海老名が預った絵葉書代だよ」と宣告されて、皆が割勘で返すことになった。それが七円いくらだったがその金を作るのには随分苦労したよ。

(参考)(その1)は6月1日

*1:久米は大正5年10月に母を送って兄のいる北海道へ行っている。

*2:昭和7年にも二科展の初日に行っている。1月8日参照。

*3:全集の年譜では、広津は大正7年鎌倉の山の内に移転したが、始終上京しては赤坂の叔母の家に滞在し、鎌倉で暮すのは月に三日か四日という状態だったとある。

*4:昭和4年の渡仏時にも描いていたことについては、5月22日参照。

*5:佐藤春夫。ちなみに、佐藤は大正4年の第2回二科展から6年の第4回二科展までの3回入選している。