神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

林倭衛と広津和郎の出会い

広津和郎『年月のあしおと』の「本郷・八重山館時代」に、

その八重山館時代には、画家の林倭衛がよくやって来た。大杉派のアナーキストで、一時実行運動までやっていたのが、絵を描き出し、大杉の肖像や小笠原風景を描いたりして、二科会に出したが、その小笠原風景にたしか二科賞がついたと思う。
私はその頃油絵具を買って来て、大船附近の風景と、私のところに来る文学青年の顔とを描いたことがあるが、丁度白木屋二科会とか旧草土社とかの若い人達が展覧会をやった時、鍋井君もその仲間であったが、私にも出品して見ろと鍋井君が云ったので、それらを出して見たのだが、その展覧会の後で、誰とかが賞めていたからその絵を見せてくれと云って、林倭衛が突然やって来たのである。そして林は「何だ、この程度か」と私の絵を見て云ったが、それからどうしたわけか、毎日のように私を訪ねて来るようになった。

「大杉の肖像」は「出獄の日のO氏」で、大正8年の第6回二科展に出品。この絵をめぐる騒動については、「雀隠れ日記」参照。「小笠原風景」は大正6年の第4回二科会に出品し、樗牛賞。

広津が出品した展覧会は、大正9年2月27日付東京朝日新聞「学藝たより」に、広津が1日から白木屋開催の瞳子社洋画展覧会に出品とあり、この展覧会のことである。広津は、「一寸描いて見た絵の事」*1で、瞳子社の展覧会が白木屋で開かれた時、鍋井克之に大船で描いた絵を出品してみろと言われ、思い切って出して見たと書いている。また、「熱海から」*2でも林との出会いを大正9年と書いているので、同年に初対面と見てよいだろう。ただし、初対面が大正9年と確定しても、上記の文章をよく読むと、林がよくやって来たという広津の八重山館時代について、大正10年ではなく、大正9年であると断定はできないのであった。

(参考)「久米正雄「モン・アミ」の画家相澤八郎のモデル(その2)」(6月6日)。なお、6月26日の読売新聞日曜版の永井一顕*3「異才列伝」は、広津だった。

*1:『中央美術』大正9年8月号

*2:『林倭衛展』信濃美術館

*3:卒論の副題は、「−−広津和郎を中心に」だったという。