神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

広津和郎と本郷の八重山館

『中央美術』大正9年10月号に掲載された鍋井克之の日記8月10日の条によると、鍋井は妻が病気で帰郷したため、広津から譲ってもらった部屋に下宿しているが、関西に旅行している間に、広津が戻ってきていて、広津は隣室の友人の部屋と鍋井の部屋とを往来して都合のいい所で寝ているという。この日も、帰宅すると、広津や隣の高丘が部屋で大あぐらをかいて飯を食っていたり、林倭衛*1が来たりしている。この下宿は、「最近文壇消息(十)」(同年10月)に鍋井の転居先として本郷区本郷5ノ37八重山館とあるので、八重山館のことと思われる。この八重山館については、「広津和郎の本郷八重山館時代は、大正9年から」(7月1日)に言及したが、鍋井の日記によると、広津は以前にも住んでいたことがあることになる。それを裏付けると思われるのが、広津の叔父倉富勇三郎の日記である。最近刊行された同日記第一巻によると、広津和郎は、大正8年1月7日、9日、11日、31日、2月2日から3月7日まで、4月2日か3日から4日まで倉富邸に泊まっているほか、次のような記述がある。

大正9年1月17日 ○午前八時後、広津直人来り、内子の病を問ふ。午後、直人本郷に行き、和郎に内子の病を報し、午後、直人復た来り宿す。夜和郎来り、少時にして帰り去る。

「広津直人」は和郎の父で作家の広津柳浪の本名、「内子」は柳浪の妻宣子。これによると、広津はこの年1月には本郷に住んでいたようで、これが八重山館ではなかろうか。ただし、広津が八重山館に初めて下宿したのは同月以前としても、7月に市外中野町から代々木初台598へ転居した(読売新聞同月27日)後、鍋井の日記によれば8月までに(読売新聞11月23日によれば遅くとも11月までに)更に八重山館へ転居しているので、長期間滞在するようになったのは、同年後半ということになる。

広津の八重山館時代前後の住居を一覧にしてみると、

大正7年正月 しばらくぶりに鎌倉の家に帰る、両親は別願寺の隣の安養院に移っていた(年譜)

    1月 鎌倉町名越安養院内及び東京市麹町区永田町二ノ三〇永田館(「現代文士録」)

    5月末、ふくの実家からふくと二人の子供をつれて、両親と離れ、もう一度家庭生活を新たにやり直すつもりで鎌倉の山の内に移転。しかし、心が苛立つばかりで落ちつけず、原稿を書くために始終上京しては赤坂の叔母の家に滞在し、鎌倉で暮すのは月に三日か四日という状態。(年譜)

    11月 この頃、両親は小一里離れた鎌倉大町に住む(年譜)

  8年 山の内の家から巨福呂坂、小町、大町と越して歩き、この年の暮、小町に近い大町の家を最後に、ふくと籍はそのままにして別居した(年譜)

    1月 鎌倉町大町、八雲神社前(「現代文士録」)

    2月 鎌倉大町一一五四番地へ転居(「最近文壇消息」)

    3月末 宇野が牛込神楽坂の神楽館に母と二人で下宿。間もなく、広津も下宿したので、近くに住む谷崎精二と日夜往来(宇野浩二の年譜)

    5月 牛込袋町の都館で宇野と同じ部屋に幾日か住んだ(宇野『文学の三十年』)

  9年 下宿から下宿へ転々とする生活を送る(年譜)

     1月 鎌倉大町八雲神社前へ転居(「最新文壇消息」)
 
     6月19日 府下豊多摩郡野戸村字新井五三〇番地へ転居(読売新聞同月21日)

     7月 市外中野町から同じく代々木初台五九八番地へ転居(読売新聞同月27日)。久米正雄本郷区本郷四ノ三〇へ転居(「最近文壇消息」)

     9月 府下代々木初台五九八へ転居(「最近文壇消息」) 

    11月 風邪快方に向つたが尚ほ引続き本郷八重山館に在り(読売新聞同月23日)

  10年 この年、本郷五丁目の八重山館に下宿し、人間社をやっていた植村宗一(直木三十五)と親しくなり、アナーキストの画家林倭衛ともつきあった。下宿の筋向いに久米正雄の家があり、そこに出入りするうちに菊池寛らとも親しくなった(引用者注:正しくは、大正9年と思われる)。また、夏、森ケ崎の大金旅館に近松秋江と隣り合せの部屋で三、四ヶ日滞在(年譜)

    1月 豊多摩郡野方村字新井五三〇(「現代文士録」)

    11月 父君柳浪氏と共に鎌倉小町に一家を持つた然し[欠]の本郷五丁目八重山館宿泊は元通り(読売新聞同月21日) 

  12年4月 渋谷道玄坂に上村との合名会社芸術社を設立し、その代表社員になった。牛込神楽坂に近い下宿神楽館に社員を置き、両親、M子が暮していた鎌倉小町の家との間を往復したが、下宿に泊る日の方が多かった(年譜)

    11月 大阪から帰京牛込区神楽坂神楽館に止宿(読売新聞同月2日)

注:年譜・新聞以外の年月は、掲載誌(『文章世界』、『中央文学』)の発行年月なので、実際の現住所、転居はその前月以前になる。

*1:「林倭衛と広津和郎の出会い」(6月27日