神保町系オタオタ日記

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聴竹居の建築家藤井厚二の原点ーー東京帝国大学を卒業直後に新式日本倉庫を提案ーー

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数寄者高橋義雄の日記を色々使ってきたが、今回は藤井厚二。意外にも同日記には建築家も何人か出てくるが、今年京都文化博物館で「太田喜二郎と藤井厚二ーー日本の光を追い求めた画家と建築家ーー」展が開催された藤井にしよう。アサヒビール大山崎山荘美術館に行かれたことがある人は、トンネルを抜けて美術館に向かう途中の左手にある聴竹居を見たことがあるだろう。その住宅を設計し、住んでいた人物である。高橋の日記『萬象録』巻1によれば、

(大正二年)
八月二十八日 (略)
[藤井工学士の新式日本倉庫]
午前藤井厚二氏来宅、氏は帝国大学建築科卒業の工学士にして日本の土蔵に就き研究中の由なるが、国民新聞社の阿部充家氏の紹介を以て来訪せしなり。氏は従来日本の土蔵は防火の為め其窓を小さくして空気の流通を妨ぐるが為め湿気を増加するの恐れあり、就ては西洋の書籍館等に其例あることゝて、窓を廃して倉庫内を暗室と為し電灯を以て日常の用を弁ずる、其電気は入用の時に外部の電気と接続せしめて全然火災の危険を防ぎ、空気の流通は倉庫内を貫通する一個の筒を以てするの考なりと云ふ。余は敢て賛否を表せず、其図案の出来上りたる上にて批評すべしと言ヘリ。但し倉庫は日本建築中最も必要の部分なれば、十分に研究して藤井式倉庫なるものを工夫して以て公衆の便宜を謀るべしと勧告し、右倉庫研究に就き平岡其他の倉庫一覧の紹介を為すべく約束せり。
(略)

[ ]内は、原本欄外にある見出しを校訂者が本文に挿入したもの

谷藤史彦『藤井厚二の和風モダン 後山山荘・聴竹居・日本趣味をめぐって』(水声社、令和元年7月)の年譜によれば、大正2年7月東京帝国大学工科大学建築学科卒、卒業設計は「A Memorial Public Library」、同年10月合名会社竹中工務店入社。同社在職中の大正7年千家尊福の娘壽子と結婚。日記の大正2年8月は東大を卒業して、竹中工務店へ入るまでの時期に当たる。藤井は後に住宅の通風に床下と屋根裏をつなぐ通気筒を用いるが、その原点がこの新式日本倉庫にうかがえる。おそらく、この記述は藤井の研究者も気付いていないだろう。実に多彩な人物が登場する日記である。
参考:「数寄者高橋義雄の日記『萬象録』を使って稲岡勝『明治出版史上の金港堂』に補足 - 神保町系オタオタ日記

藤井厚二の和風モダン: 後山山荘・聴竹居・日本趣味をめぐって

藤井厚二の和風モダン: 後山山荘・聴竹居・日本趣味をめぐって