学生時代から酒井勝軍、荒深道斉、鵜沢総明、田多井四郎治といった竹内文献に関わった人達の名前にキャアキャア言っていた。田多井が理事を務め、大湯の環状列石の発掘にも関わった神代文化研究所も当然知っていたが、機関紙『神代文化』は未見であった。ところが、平成27年11月西部古書会館の古本市でとうとう発見。内務省の受付印がある。この時期、内務省の元検閲官だった人の旧蔵書が東京の市会に出たようで、金文堂、魚山堂、古書かんたんむなどが内務省印のある雑誌等を古書市や店に出品していた。検閲官某は宗教、郷土史、アイヌ等に関心を持っていたようで、その関係の雑誌や新聞を役得(?)で持って帰っていたようだ。おかげで、どこの図書館にもない機関紙を私が入手できた。そういえば、戦後も四畳半襖の下張事件で押収された『面白半分』が判決確定後に押収部数より相当減った部数しか返還されなかったというから、役得の慣例は引き継がれているのかもしれない。
私が入手したのは、秋桜書店出品で『神代文化』2部で300円。多分この10倍以上でも買っただろう。33号(昭和16年7月)と35号(同年10月)である。編輯兼発行人は理事の小寺小次郎。目次は写真のとおり。35号の座談会「日、独両国人の”神代文化を語る“座談会」が面白い。昭和16年9月16日丸之内常盤家で開催され、出席者は、
・日本側 林銑十郎大将、小磯国昭大将、一條公爵、研究所井上所長、小寺理事、田多井理事など
・独大使代理シュルツェ文化部長、ジュルクハイム教授、ワルデック博士など
小磯がウィリアム・ペリーとムー大陸に言及している部分を写真で挙げておく。ペリーについては「「銀シャツ党」首領ペリーと古賀政男の弟古賀治朗」を、ジュルクハイム(デュルクハイム)については「情報官鈴木庫三とクラブシュメールの謎(その21)」参照。デュルクハイムはスメラ学塾のメンバーであった。
田多井と神代文化研究所については、大内義郎『神代秘史資料集成解題』(八幡書店、昭和59年8月)に
(略)昭和十三年頃、当時唯一の特殊軍需要[ママ]器材制[ママ]作所として知られていた静岡県沼津市の富士制[ママ]作所社長田中清一を資金のバックとして小寺小次郎が興した神代文化研究所で理事・所長の要職を占め、同じ頃所員となった安藤と並んで上津文研究家として活躍し、同十七年には大湯のストーンサークルの発掘を手懸けたが、昭和十八年頃、研究所の役員から身を引いている。(略)田多井が神代文化研究所の所長であった時期は、判然としないが、比較的初期の頃のようである。昭和十七年当時の田多井の肩書は研究所理事である(略)
とある。田多井が所長を務めた時期は私も知らないが、小寺の『言霊研究入門』(神代文化研究所、昭和15年10月)の巻末では所長は元東北帝大総長井上仁吉である。『神代文化』の揃いが発見され、八幡書店から復刻版が出れば、この辺りの謎が解けるのだが。
『神代文化』の発行部数だが、幸い(?)なことに削除処分を受けたため小林昌樹編・解説『雑誌新聞発行部数事典』に掲載されている。
21号 昭和15年6月 1744部
27号 昭和16年1月 2000部
30号 昭和16年4月 2000部
34号 昭和16年9月 2000部
入手したのが33号と35号だから、さすがに発禁となった号は持って帰らなかったのだろう。毎月20日発行なので、逆算すると昭和13年10月頃創刊ということになる。
この『神代文化』や中里義美主宰の『神日本』は、戦後の『さすら』や『日本神学』(『神霊文化』)といった「もう一つの日本」を顕彰する雑誌群へ連なる系譜と言えよう。
追記:今年の3月に創刊号、2号、6号、35号、36号、38号の6冊がヤフオクに出たようだ。画像では昭和13年9月創刊。