文久元年生まれで、慶應義塾卒業後時事新報を経て、三井銀行で活躍し、茶の湯を趣味とした高橋義雄(箒庵)という財界人・文化人がいた。その日記が『萬象録』(思文閣出版)として刊行されている。この日記は、政治家・実業家・趣味人・宗教家が多く出てくるが、その他にも多彩な人物の名前が見られ、使い道が多そうである。今回は、昨日ゲスナー賞の授賞式があった稲岡勝『明治出版史上の金港堂』(皓星社)への補足に使ってみよう。ただし、稲岡先生は同書170頁で金港堂主原亮三郎の別荘に関して、高橋の随筆集『箒のあと』を引用しているので、日記の記述を知っていて、引用するまでもないと判断されたかもしれない。
稲岡著によれば、幸田露伴の弟子で金港堂の雑誌『少年界』『少女界』の主筆を務めた編集者神谷徳太郎(鶴伴)は、経営不振の金港堂に代わり大洋社を設立し、両誌の発行を続けた。しかし、同書によると雑誌は売れ行き不振で、終焉に至る様子が露伴の日記からうかがえるという*1。
明治四十五年一月十二日 神谷徳太郎来る。雑誌新年の冊、捌け残りしよしにて、意気消沈、気の毒なることなり。
大正二年五月二十二日 千住石灰商会高田義太郎来る。神谷徳太郎友人なり。神谷の為に手形裏書をなしたる其額計七百円余、期来り神谷在ざる為に困難を感ずるよし(略)神谷少年界少女界二雑誌を経営し、資薄く力微にして、窮余こゝに至れるか。(略)
同二十三日 夜高田また来る。神谷居所からく知り得たれど、猶会ふを得ざりし由也。
明治45年から大正2年にかけて、神谷と2つの雑誌が危機的な状況であったことがわかる。この時期の神谷が高橋の日記『萬象録』に出てくるのだ。
(大正元年)
九月二十一日 (略)
夕食後神谷鶴伴氏来宅、氏は久しく金港堂の編集部に雇はれ雑誌編纂に従事せし由なるが、金港堂にて雑誌発行を罷めたるに因り氏は其後を引受けて現に之に従事し居る由、然れども雑誌界の競争甚しく微力にては到底維持すること能はず、今度文藝上他の職務を得んとする希望の由、因て試に片桐石州の伝記材料を蒐集せしめて、茶道歴史編纂に適するや否やを試験する事と為せり。
十二月二十七日 (略)
神谷鶴伴其編纂に係る片桐石州の伝記出来したりとて持参せり。近来出版界は非常なる打撃を蒙りて何れも出版書籍の数を減じ、殊に三省堂破綻以来益々其悲境を加へ、浮薄淫卑なる小説のみ持て囃されて勇健なる大著述を見る能はざるは、現今我が出版界の通弊なりとて歎息し居れり。
(略)
(大正二年)
二月十八日 (略)
岡百世氏を三井同族会に訪ひ、氏の紹介に係る神谷鶴伴氏の片桐石州伝謝礼に就き相談せんとせしに、百世氏不在なれば社員に伝言し置けり。
(略)
十二月八日 (略)
山本条太郎氏夫人来宅、忠雄不快の事を聞き見舞に来りたるなり、夫人は金港堂原亮三郎氏の娘にて、子なく養子は忠雄と同年配なり。
(略)
高橋の日記により、神谷が雑誌経営に苦労する中、高橋から伝記作成の仕事を貰ったことがわかる。ただし、神谷は行方をくらましたのか、謝礼を受けた事が確認できない。大正3年以降の日記をまだ読んでいないので、神谷のその後が判明すれば、別途報告したい。なお、大正2年12月8日の条をおまけに加えたが、山本条太郎夫人は原の三女操子である。
参考:「稲岡勝『明治出版史上の金港堂』(皓星社)にならい出版史料を発見 - 神保町系オタオタ日記」「金港堂発行の雑誌『和国新誌』とはーー稲岡勝『明治出版史上の金港堂』のゲスナー賞受賞を祝してーー - 神保町系オタオタ日記」「戦前期における裏表紙に刷られた出版社ロゴマークの美学 - 神保町系オタオタ日記」