神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

明治41年数え17歳の岸本水府が旅先から父親に送った絵葉書

今年2月水の都の古本展でモズブックスの3冊500円コーナーは某氏の旧蔵書を中心に放出されたようで、異常な熱気に包まれる事態となった。そんなモズブックスの絵葉書コーナーには川柳家の岸本水府宛葉書が大量に出ていた。数枚であれば全部買ってもいいのだが、多すぎるとかえって買う気が失せるもので、水府宛は止めておいて、岸本龍郎(水府の本名)が父親龍太に出した絵葉書だけ購入。
明治41月10月□日の消印で、裏面には「粟津文庫」「よしなか寺」の印が押されている。文面は、10日午後5時八景を見終わり石山の松月館に着いたことなどが書かれている。「粟津文庫」というのは、大津市義仲寺の粟津文庫のことで、義仲寺には木曽義仲松尾芭蕉の墓があり、粟津文庫には蕉門の遺品が納められているらしい。水府は明治25年生で、この時は数え17歳。岸本吟一編『川柳全集』4巻岸本水府(構造社出版、昭和56年3月)の「略歴と年譜」によれば、明治39年大阪の成器商業学校(現・大阪学芸高等学校)へ入学、この葉書を出した41年には、川柳、俳句、短歌を始めていた。なるほど、水府にふさわしい絵葉書である。ちなみに、『番傘』47巻4号(番傘川柳社、昭和33年4月)の「水府自伝8」によれば、明治41年秋の遠足は近江へ行ったとあるので、義仲寺にはこの遠足で行ったのだろう。
水府の遺品が今回も含め何度か古書市場に出たようで2月の寸葉会では宮尾しげをの水府宛暑中見舞を購入。気になるのは、水府が明治41年から付けていたという日記の行方である。一部は『番傘』に掲載されたが、全貌を知りたいものである。