神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

原始藝術品蒐集者にして幼年美術研究者だった宮武辰夫のもう一つの顔

ツイン21の古本市で見つけた『民族と郷土』陽春号(民族と郷土社、昭和22年4月)。28頁、500円。民族と郷土社は、大阪府箕面牧落に所在。所蔵する図書館は皆無か。表紙は雪原にうづくまる裸の女性の写真。キャプションには「春の流水に祈るアラスカの娘」とある。表紙には他に「FOLKS」、「郷土は民族の乳房であるーー」などと書かれている。カストリ雑誌の類いかと思いきや、中を見ると世界の「裸形民族」や賭博の王国モナコ、世界子守り百態、栃木の石像など世界各地の民族、風俗を紹介する写真が満載で、真面目な雑誌であった。あまり面白そうな内容ではないが、表紙に「主幹宮武辰夫」とあって宮武外骨と関係があるかもと購入。
調べてみると、外骨とは無関係だったが、原始藝術や幼児美術教育の研究者としてその筋では割合著名な人であった。『日本新教育百年史』7巻(玉川大学出版部、昭和45年8月)と宮武の『保育のための美術』(文化書房博文社、昭和54年1月)から経歴をまとめてみると、

宮武辰夫(みやたけたつお)
明治25年 高松市
大正4年 高松中学を経て、東京美術学校(現東京藝術大学)洋画科卒業
大正5年から6年まで 函館高等女学校で美術科の教師
大正8年から10年まで 欧米に遊学して原始美術の研究を志し、特にアラスカ地方において、エスキモー民族の藝術を研究。
昭和8年から9年、17年から18年にかけて、現住民族の藝術探査と原始美術研究のため、世界各地を行脚して、直接原住民と生活を共にしながら研究を進めた*1
戦後 西宮に幼年美術研究所を開き、幼少年の絵画・造形美術の指導をするとともに、聖和女子大学などの講師として指導者の養成につくした。
昭和35年9月24日 没

コレクターとしても著名だったようで、伊達俊光『大大阪と文化』(金尾文淵堂、昭和17年6月)に関西の美術品コレクターの一人として紹介されている。それによると、「府下箕面、牧落の丘上に昭和十一年冬新屋を築き、その屋内にアラスカ以来の原始藝術品を収めてゐる」という。
宮武が集めた原始藝術品は昭和15年4月から『世界原始民藝図集』(世界原始民藝図集刊行会)として刊行され、不揃いではあるが国会図書館のデジタルコレクションで見られる。その別冊第1巻4頁が、本書の表紙に使われたアラスカの女性の写真である。ちなみに「日本の古本屋」では山崎書店が揃いを8万円強で出している。
さて、宮武と同じく香川県出身で画家の林哲夫氏に『喫茶店の時代』(編集工房ノア、平成12年2月)という本がある。版元品切れ中のようなので、ちくま文庫あたりで増補改訂版の刊行がまたれる。実はこの名著で宮武の知られざるもう一つの顔がうかがえる。東京市内のカフェー、バーの盛況の始まりとして、白木正光編『大東京うまいもの食べある記』(丸ノ内出版、昭和8年4月)が引用されている。

(略)昭和の初め頃、欧州を一周して歸つた、これも美校出の洋畫家宮武辰夫氏が、巴里の酒場の印象をその儘、東京人にもゆつくり落着いて酒の味を享楽させたいと云ふので、銀座松坂屋の横にユング・フラウと云ふ小い酒場を初めたのが、そも/\今日のカフェ、バーの最初です。(略)非常な評判になり、文壇人等も盛んに通ふやうになつて忽ちにして銀座の内外に、これに似たバーが雨後の筍よろしく現はれたのです。

という。宮武は日本カフェー史上も重要な人物であったようだ。この宮武のコレクションはどうなっているのかとググってみると、東南アジアの民俗資料は豊雲記念館(神戸市)に寄贈されたが同館は閉館したようだ*2。どこかのミュージアムで宮武に関する展覧会を開催してほしいものである。

喫茶店の時代

喫茶店の時代

*1:この他、渡航時期については、『日本美術年鑑1931』(東京朝日新聞発行所、昭和5年12月)には「昭和元ー三外遊」とある。

*2:この他、鎌田共済会郷土博物館(坂出市)が台湾現住民族の生活用具を所蔵している。角南聡一郎「宮武辰夫の蒐集と台湾現住民族」『郷土博通信』6号(鎌田共済会郷土博物館、平成27年10月)参照。