神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

木山捷平と菊地康雄

菊地康雄を日本近代文学大事典で見ると、

菊地康雄 きくちやすお 大正九・九・七〜(1920〜)詩人。東京生れ。筆名初村顕太郎。一七歳ごろより詩作、若くして詩集『十九歳』(昭一五・九紅緑社)を出す。戦後芸文書院や「ロマン(ス)」の編集長を勤めつつ「文学生活」「文学者」「早稲田文学」に寄稿(略)

昭和16年7月菊地は、満洲雑誌社東京支社に入社。18年2月に渡満し、そこで木山捷平に出会っているようだ。木山の日記によると、

昭和24年9月26日 作品社八木岡氏不在。ロマンス社に菊地康雄君訪問。満洲以来なり。有楽町駅前「お喜代」にてのむ。立野信之、水島治男、唐沢正雄諸氏に出遭った。

その後、菊地は東西南北社を経て、藝文書院に入社。木山の『耳学問』を編集することになる。木山の日記では、

昭和31年10月10日 菊地康雄氏、伊藤恒章氏と同道来訪。「芸文書院」の文学作品出版のこと。川端康成三島由紀夫両氏の書はすでに着手している。小生『耳学問』として本月中に原稿を整理することを約束した。
  37年7月30日 「宴」同人会。(略)あと菊地康雄君と二人で新宿「樽平」でのむ。詩集(『木山捷平詩集』)の原稿は、昭森社にわたすことになったことをきく。菊地君は「宴」の創刊号はできたが、表紙が気に入らないから刷り直すとも言っていた。

(参考)「大陸講談社の『ますらを』と満洲雑誌社の『満洲良男』