神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

無銭探検家中村直吉とパリ滞在中の和田英作との接近遭遇


 昨年縁があって、『神保町 本の雑誌』(本の雑誌社、令和5年11月)に「なぜ『神保町のオタ』を名乗るのか」を寄稿しました。そこでは中学生の時に買った『SFマガジン』世界は破滅する!特集(早川書房、昭和49年10月)でヨコジュン(故横田順彌*1)の連載「日本SFこてん古典」に出会ったことを書きました。その出会い以降、ヨコジュンの古書を使った主に明治期の人物にかんする研究やハチャハチャSFに熱中したものです。
 中村直吉という探検家を知ったのもヨコジュン経由でした。『明治不可思議堂』(筑摩書房、平成7年3月)*2の「ふたりの無銭探検家」では、次のように紹介されている人物です。

(略)直吉は慶応元(一八六五)年愛知の豊橋に生まれた。(略)
 最初の外国旅行は明治二十一年だった(略)
 二十七年に今度はカナダとハワイに渡り、三十一年帰国。(略)明治三十四年、六十か国、十五万マイルの旅に出るのだ。しかも、無銭旅行で行く先々で金を稼いだり、援助してもらって旅を続ける。(略)晩年は豊橋の市会議員に立候補したものの落選。昭和七年、南アメリカへ移住の準備中に死去した。

 中村による明治30年代の探検は、押川春浪との共編『五大洲探検記』全5巻(博文館、明治41年~45年)として刊行されている。そのうち、第3巻『鉄脚従横』(博文館、明治43年4月)の「(二四)光輝と暗黒の巴里」を見てみよう。

 明治三十六年一月一日、林君*3主催の新年宴会で、多くの在留日本人と相知るの栄を得た。(略)
 洋画家の和田英作君なども当時巴里に居た。同君にも此宴会が初対面の場所だ。
(略)
 一日和田英作君を其下宿に訪問した。恰度裸体画の製作中であつた。是は慥か大阪博覧会に出品された筈だ*4。其時同君の話しに
「此下宿へは時々吾々の話仲間が寄つて、気焔の吐きッ競を行ふが、皆無遠慮な連中ばかりだから、四辺構はず大きな声を出す。スルト隣室に下宿してる仏人が、日本の野蛮人!と怒鳴る騒ぎ(略)」といふ一節があつた(略)

 この中村の記述を裏づけるのが、静岡県立美術館で見た「和田英作展」(平成10年8月~9月)の図録で翻刻された和田の日記*5である。

明治三十六年
一月
一日 曇 夜に入り雨(木曜日)
 (略)今夜の公使館の夜会は面白かつた。(略)午前二時に武田君*6と帰宿して、同君の室で咄しをして居たら、下の室から大声でSauvageと奴鳴られた。此先生少々神経病で夜寝らぬ相だが、僕等の夜更まで咄して居たのも悪い。
十三日 晴風 寒し
 (略)世界旅行者の中村直吉氏の訪問せらるゝに遇ふた。一向に教育も無い男の様だが其堅忍不抜の精神は実に驚くべきものだ。茶を供しなどして同氏の旅行談を聞いた。直木*7、柳野、藤村*8三君も丁度其時訪ひ来られた。僕は伯林の玉井喜作君に出来る丈けの世話をして上げて下されと紹介状を書いた後で紐育の矢崎俊ちゃんにも宛てゝ紹介すればよかつたと思ふた。(略)
十四日 晴
(略)世界旅行者中村直吉氏此宿屋に転じたしとて頼みに来た。おかみさんに問ふたら明(空)室が無いとの事だつた。今日武田君と林忠正氏方に先月の礼をいひに出懸けた。(略)
二十三日 (略)中村直吉氏がいよ\/倫敦へ出懸けますとて暇乞に来られた。

 日記明治36年1月1日の条中の「公使館の夜会」が中村の言う「林君主催の新年宴会」に当たるのかは、不明である。しかし、和田の日記によって、中村と和田が巴里で出会ったことや、和田が同じ下宿のフランス人から「野蛮人」と怒鳴られたという中村の記述が事実だと裏付けられた。日記好きのオタどんでも、こういう展覧会の図録に掲載される日記の翻刻は見落としやすいので要注意ですね。
 
参考:「和田英作が夢見た欧州模写名画美術館 - 神保町系オタオタ日記

*1:今日は、横田順彌の命日ですね。

*2:画像は、ちくま文庫版(平成10年3月)

*3:画商の林忠正。「島田筑波と春峰庵事件の金子孚水による『孚水ぶんこ』ーー若井兼三郎の蔵書印「わか井をやぢ」についてーー - 神保町系オタオタ日記」参照

*4:明治36年大阪で開催された第5回内国勧業博覧会に出品された《こだま》か。

*5:泰井良「和田英作『欧州日記』[資料編]」

*6:建築家の武田五一

*7:東京市築港調査課長の直木倫太郎

*8:画家の藤村知子多

玉川大学出版部の前身イデア書院が創刊した『児童文学』ー玉川大学出版部100周年ー


 今年も後2日ですね。年内にどうしてもアップしておくべきネタが残ってました。ジュンク堂書店池袋本店で2月19日まで「イデア書院→玉川学園出版部→玉川大学出版部100周年フェア」(honto店舗情報 - 【4F人文】玉川大学出版部100周年フェア)を開催中。玉川大学出版部の前身(玉川学園出版部)の前身であるイデア書院は、小川国芳により大正11(1922)年12月25日創立された。したがって、厳密には昨年が創立100周年であるが、実際の出版活動は大正12年からということで今年を100周年としているようだ。
 手元に『児童文学』第1号(イデア書院、大正12年5月初版・同年6月3版)がある。平成29年8月下鴨納涼古本まつりで三密堂書店から200円で入手。貴重な本のようで、玉川大学教育学術情報図書館と神奈川近代文学館が第1号を所蔵しているぐらいだ。
 『玉川学園五十年史』(玉川学園、昭和55年10月)によれば、イデア書院は大正12年1月雑誌『イデア』を創刊し、同年6月頃から子どものための雑誌として『少年文学』*1(高学年)、『児童文学』(中学年)、『コドモ文学』*2(低学年)の3種を創刊した。家蔵の『児童文学』第1号は3版なので、ある程度好評だったのだろう。しかし、時期が悪かった。大正12年は9月1日に関東大震災が発生した年である。そのためであろう、前記『玉川学園五十年史』に、『児童文学』12月号に集金が進まず6千円強もの未収金があり、このままでは継続困難なので休刊したいとの発表があるという。

 目次を挙げておく。著者名がないので一部補足すると、「一房の葡萄」は有島武郎、「山幸彦海幸彦」は奥野庄太郎、「椿の島」は荻原幾太郎、「さんちやんのひよこ」は同誌編集者の斎田喬、「吾等は七人」はウーワズワース、「王様とシヤツ」はトルストイ、「愛の学校」は三浦修吾*3(アミーチス「クオレ」の訳)の作品である。面白いのは、荻原幾太郎は荻原井泉水のことだが、同号には「作者は有名な詩人です。月に吠える。青猫。などの詩集をおもちになつてゐられます」とあり、萩原朔太郞と誤解している。イデア書院は、まだまだ駆け出しの出版社であった。
参考:「『児童百科大辞典』完結で賑わう玉川学園出版部と京都の書道家多和格 - 神保町系オタオタ日記

*1:『日本児童文学大事典』第2巻(大日本図書、平成5年10月)によれば、大正12年5月~11月(6号)まで確認されている。

*2:正しくは、『コドモの文学』か。

*3:杉浦非水装幀のドストエフスキー著・三浦関造訳『カラマゾフの兄弟』(金尾文淵堂、大正3年) - 神保町系オタオタ日記」参照

雑学王吉永進一と雑学博士土屋元作が交錯したシカゴ万国宗教会議ー『岩波仏教辞典第三版』刊行ー


 中村元福永光司・田村芳朗・今野達・末木文美士編『岩波仏教辞典第三版』(岩波書店)が刊行された。内容案内には「新規項目例」として、「中外日報」、「ラジオ説教」、「赤松連城」、「暁烏敏」、「大谷光瑞」、「友松円諦」、「曽我量深」、「万国宗教会議」、「オルコット」などが挙がっている。特に「オルコット」が立項されるほど研究が進んだのは、故吉永進一さんの功績*1だろう。

 シカゴ万国博覧会に併せて万国宗教会議が開催されたのは、明治26(1893)年であった。旧Twitterで「スーパー教派神道マシン@「教派神道」研究会(仮)」氏(@Imakov)が、130周年とつぶやいておられた。この万国宗教会議で思い出すのは、平成29年の夏に吉永さんと廻った下鴨納涼古本まつりでの出来事である。近くのグリル生研で私が杉浦非水装幀ということで買った土屋元作(号大夢)『夢中語:土屋大夢文集』(土屋文集刊行会、昭和6年12月)*2を見せた時である。口絵の「明治二十六年の大夢(シカゴにて)」を見て、「これはシカゴ万国宗教会議」に行ったのではないかと。

 これは鋭い直感で、確かにそのとおりであった。長尾宗軾『宗演禅師と其周囲』(国史講習会、大正12年6月)に土屋による釈宗演の回想として、

◇鉄火世界 明治廿六年余米国シカゴに在り。時に万国宗教大会開かれ、日本より神道及び仏教の代表者来る。其一人は即ち老師なり。余奇遇を感じ暫時同宿して宗教大会の仕事を手伝ふ。(略)

とある。また、山本為三郎編『記憶を辿りて』(土屋文集刊行会、昭和7年8月)の「年譜(大夢翁自筆覚書の儘)」には、「明治二十六年シカゴ大博覧会の開かるゝに際し大阪出品協会雇員となり米国に行く」とある。
 吉永さんは、その博識故に「宗教雑学王」と呼ばれたりした。一方、土屋は前記『記憶を辿りて』の堀田宗一郎「跋」で「諸方面に亘り雑多の智識を持つてゐる所から、交友間に雑学博士のニックネームが伝播さるゝに至つた」と評されている。雑学王と雑学博士が、万国宗教会議を軸に時空を越えて交錯したのであった。吉永さんがもう少し生きていれば、万国宗教会議130周年記念に何かイベントを開催してくれただろうか。

鳥居龍蔵の長女鳥居幸子の夫としての仏文学者萩原弥彦

 鳥居龍蔵の一部の研究者は知っているだろうが、龍蔵の長女幸子の夫は仏文学者の萩原弥彦であった。私が気付いたのは、和田博文監修「ライブラリー・日本人のフランス体験」第3巻(柏書房、平成11年7月)として復刻された『あみ・ど・ぱり』2巻1号(巴里会、昭和10年1月)を読んでいた時であった。旧Twitterでこの発見をつぶやいたのは、平成23年11月のことだ。パリに滞在していた洋画家海老名文雄*1を調べていて、瓢箪から駒だった。今では国会デジコレで読めるが、同号の「雑記」から引用しておこう。

▲鳥井[ママ]龍蔵氏は息女幸子さん(萩原弥彦氏夫人)及緑子さんを連れて、愛息龍男君のお墓参りに巴里に行かれる由。

 幸子の夫が萩原であることは、これまた国会デジコレで見られる『人事興信録:昭和九年版』(人事興信所、昭和9年10月)の龍蔵の項にも「鹿児島県人萩原弥彦に嫁し」と記載されていた。これは、12年前には気付かなかった。
 『考古学』4巻4号(東京考古学会、昭和8年4月)の「学界消息」には、「鳥居幸子氏は萩原弥彦氏と結婚された」とある。萩原は、『人事興信録:第十七版下』(人事興信所、昭和28年9月)によれば、明治36年生まれで、昭和6年東京帝国大学文学部仏蘭西文学科卒、9年同大学院修了。14年外務省嘱託となり、戦後は横浜市立大学教授となっている。結婚当時は、まだ大学院生だった。『東京帝国大学一覧:昭和八年度』(東京帝国大学昭和8年7月)によれば、「アルフオンス・ドウデエ研究及ビ仏蘭西十九世紀ニ於ケルコント及ビヌヴエルノ研究」を行っていた。幸子は大正13年から昭和2年までフランスに留学した才女だったので、萩原と話が合っただろう。
 ただ、前記『人事興信録』では萩原の妻は「智恵子」となっている。いつ、離婚したのだろうか。幸子は、龍蔵が昭和14年北京の燕京大学に招聘された時に龍蔵、きみ子夫人、妹緑子、弟龍次郎、娘玲子と共に中国へ渡り、戦後の昭和26年に帰国している*2。大陸に渡る前に離婚していたのだろうか。中薗英助鳥居龍蔵伝』(岩波書店、平成7年3月)が幸子の結婚にまったく言及していないのも不思議である。
参考:「『北方人』27号(北方文学研究会)と室内を描いた装丁本 - 神保町系オタオタ日記

『古本イエーZINE』7号に「谷澤永一が青猫書房に注文?した古書のリスト」を寄稿


 『古本イエーZINE』7号(狂言屋、令和5年11月)に「谷澤永一が青猫書房に注文?した古書のリスト」を寄稿しました。谷澤永一に送られた青猫書房古書目録の封筒に谷澤が注文したと思われる古書の番号が記されていたので、その極一部をリストにして話題にしました。南陀楼綾繁・書物蔵・鈴木潤林哲夫・正木香子『本のリストの本』(創元社、令和2年8月)を意識したものです。
 『古本イエーZINE』は、二条駅前の自宅で定期的に古本市を開催されている狂言屋さんが発行しているZINEです。私は、5号の「松尾尊兊先生の古書探索記」、6号の「藤田嗣治橋本関雪が戦地に派遣された帝国日本へタイムスリップ」に続き、3回目の登場です。旧Twitterの「一箱ふるほん狂言屋」(@kyougenya2)で自宅での古本市や参加される関西の古本市の日程を把握すれば、そこで購入(1部100円だったか)できると思います。

帝塚山学院短期大学講師時代の壽岳文章ー帝塚山派文学学会に期待ー


 田中克己は、昭和31年1月詩誌『果樹園』(果樹園発行所)を創刊。帝塚山学院短期大学で田中と同僚だった壽岳文章は、6号.同年7月に「金尾文淵堂のこと」を、11号,同年12月に「『悲歌』読後感」を寄稿している。前者は、5号,同年6月の田中「金尾文淵堂年譜稿」を受けて、金尾種次郎の思い出を書いたものである。後者は、田中の詩集『悲歌:詩集』(果樹園発行所、昭和31年11月)の発行を受けたものである。
 この時期の田中の日記は、「田中克己日記 index」で翻刻・公開されているので引用しておこう。

(昭和31年)
6月6日
(略)けふ壽岳博士「金尾の結婚の話かく」と。
6月13日
晴。午后出で沢田博士邸へ渋谷[ママ]敬三氏の会へとゆく。(略)欧州旅行の話さる。Hamburg博物館の民族学よしとなり。(略)梅棹忠夫君も来会せり(略)帰宅。壽岳博士「金尾文淵堂のこと」置きありし。
11月6日
(略)壽岳博士より歌3首。
11月14日
(略)壽岳博士に歌3首のせてよろしきときく。(略)

 6月6日の条の「金尾の結婚の話」は、「金尾文淵堂のこと」に書いた「大正十年に春江夫人と結婚したのは、それが「日本から日本へ」の出版に際し、蘆花からの有無を言はさぬ交換条件だつた」という話である。6月13日の条の「沢田博士」は、医師で民俗学者澤田四郎作で、日記に度々出てくる。11月14日の条の「歌3首」は、『果樹園』11号に載った「『悲歌』読後感」で、短歌3首で構成された『悲歌』の感想である。
 ところで、壽岳の帝塚山学院短期大学における肩書きである。「帝塚山学院物語」に「小野十三郎今東光寿岳文章庄野英二、杉山平一、田中塊堂、長沖一などの錚々たる教授陣」とあるので、てっきり教授かと思ってしまった。しかし、『庄野貞一先生追想録』(帝塚山学院昭和36年10月)に寄稿した「出藍の阿波人」における肩書きは、「元帝塚山学院短期大学講師 甲南大学教授」であった。また、『帝塚山学院四十年史』(帝塚山学院四十年史編集委員会、昭和31年11月)に、学院第二校歌について「現に短大部講師である寿岳文章が作詞」とある。担当学科目は、「英米文学史・図書学」であった。ただし、『田中克己日記』昭和30年3月9日の条に「教授会にて壽岳博士『戦後吟』*1会津八一に比肩すとほめらる」とあり、教授会に出席していたようである。
 壽岳が帝塚山学院短期大学の講師だったことは、『壽岳文章書物論集』(沖積舎、平成元年7月)の笠原勝朗編の年譜に記載がない。学院時代の壽岳の詳細については、外部の者では中々詳細は捉えがたい。帝塚山派文学学会の先生方に期待しよう。
 なお、下鴨小学校創立150周年記念事業として府立京都学・歴彩館の「下鴨小学校所蔵美術品展」(12月10日まで)に、田中と共に詩誌『骨(こつ)』(昭和28年11月創刊)同人で発行所が置かれた依田義賢関係の史料が「特別参考出品」として小コーナーになっていて、驚いた。

*1:田中克己『戦後吟:歌集』(文童社、昭和30年2月)

玉置文弥論文「第二次大本事件が残したもの」に「神保町系オタオタ日記」登場


 「国会図書館デジタルコレクション」で「神保町系オタオタ日記」を検索すると、2件ヒットする。1件は「東大の博士論文に「神保町系オタオタ日記」登場ーー鈴木聖子『「科学」としての日本音楽研究』にスメラ学塾ーー - 神保町系オタオタ日記」で紹介した鈴木聖子氏の博士論文である。もう1件は、平野亮「日本の骨相学者高橋邦三の伝」『国際井上円了研究』10号(国際井上円了学会、令和3年)である。拙ブログ「山口三之助の催眠術講義 - 神保町系オタオタ日記」が引用されているようだ。
 検索ではヒットしないが、御連絡をいただいて判明した引用論文がある。玉置文弥「第二次大本事件が残したもの:日中戦争・「大東亜戦争」下における道院・世界紅卍字会の「日本化」」である。東京工業大学未来の人類研究センターのオンラインジャーナル『コモンズ』2号「Commons Vol.2(2023年2月発行) | 未来の人類研究センター」掲載。「謝辞」として、

 なお、本論文執筆に係る史料収集の一部は、「オタどん」氏のブログサイト「神保町系オタオタ日記」における「紅卍字会」関係の記事を参考にした。

とある。ありがとうございます。
 玉置論文は世界紅卍字会後援会について、私が未見の『中外日報』、『心霊研究』、アジア歴史資料センター所蔵文書などを駆使してよくまとめておられて、とても感心した。一点だけ補足するとすれば、同会発行書として書影を挙げた『道慈問答』(昭和15年3月)も存在する。
 玉置論文の注で若林不比等に言及されていた。私も「日蓮主義者若林不比等のその後と講談社 - 神保町系オタオタ日記」などで言及したことがある人物である。しかし、同論文で若林が『農業の満洲』(農業の満洲社、昭和2年創刊)の編集をしていたことを知り、驚いた。「日本の古本屋」に2巻1号,昭和3年1月が出ていたので、早速購入した。発行人は川上賢三で、「川上初枝=若林初枝=内山若枝=日高みほの年譜 - 神保町系オタオタ日記」などで紹介した川上初枝=若林初枝=内山若枝=日高みほの父親である。バックナンバーの目次によれば、不比等の妻である若林初枝も寄稿していたことが判った。日高みほに注目していた海野弘*1は、今年4月に亡くなっている。玉置論文を読む機会はあっただろうか。
 道院・世界紅卍字会については、令和元年7月に日文研フォーラムで孫江「越境する民衆宗教ー大正・昭和前期における大本教と道院・紅卍字会の関係を中心に」が開催された。世界紅卍字会後援会については、講演では言及されず、質疑応答の中で言及されただけであった。玉置論文によって、ようやくその実態の全貌が明らかになったわけである。