神保町系オタオタ日記

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鳥居龍蔵の長女鳥居幸子の夫としての仏文学者萩原弥彦

 鳥居龍蔵の一部の研究者は知っているだろうが、龍蔵の長女幸子の夫は仏文学者の萩原弥彦であった。私が気付いたのは、和田博文監修「ライブラリー・日本人のフランス体験」第3巻(柏書房、平成11年7月)として復刻された『あみ・ど・ぱり』2巻1号(巴里会、昭和10年1月)を読んでいた時であった。旧Twitterでこの発見をつぶやいたのは、平成23年11月のことだ。パリに滞在していた洋画家海老名文雄*1を調べていて、瓢箪から駒だった。今では国会デジコレで読めるが、同号の「雑記」から引用しておこう。

▲鳥井[ママ]龍蔵氏は息女幸子さん(萩原弥彦氏夫人)及緑子さんを連れて、愛息龍男君のお墓参りに巴里に行かれる由。

 幸子の夫が萩原であることは、これまた国会デジコレで見られる『人事興信録:昭和九年版』(人事興信所、昭和9年10月)の龍蔵の項にも「鹿児島県人萩原弥彦に嫁し」と記載されていた。これは、12年前には気付かなかった。
 『考古学』4巻4号(東京考古学会、昭和8年4月)の「学界消息」には、「鳥居幸子氏は萩原弥彦氏と結婚された」とある。萩原は、『人事興信録:第十七版下』(人事興信所、昭和28年9月)によれば、明治36年生まれで、昭和6年東京帝国大学文学部仏蘭西文学科卒、9年同大学院修了。14年外務省嘱託となり、戦後は横浜市立大学教授となっている。結婚当時は、まだ大学院生だった。『東京帝国大学一覧:昭和八年度』(東京帝国大学昭和8年7月)によれば、「アルフオンス・ドウデエ研究及ビ仏蘭西十九世紀ニ於ケルコント及ビヌヴエルノ研究」を行っていた。幸子は大正13年から昭和2年までフランスに留学した才女だったので、萩原と話が合っただろう。
 ただ、前記『人事興信録』では萩原の妻は「智恵子」となっている。いつ、離婚したのだろうか。幸子は、龍蔵が昭和14年北京の燕京大学に招聘された時に龍蔵、きみ子夫人、妹緑子、弟龍次郎、娘玲子と共に中国へ渡り、戦後の昭和26年に帰国している*2。大陸に渡る前に離婚していたのだろうか。中薗英助鳥居龍蔵伝』(岩波書店、平成7年3月)が幸子の結婚にまったく言及していないのも不思議である。
参考:「『北方人』27号(北方文学研究会)と室内を描いた装丁本 - 神保町系オタオタ日記