神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

久米正雄「モン・アミ」の画家相澤八郎のモデル

武野藤介『文士の側面裏面』(千倉書房、昭和5年6月)の「誤失歩政策」は、久米正雄の「モン・アミ」について、

扨(さ)て久米正雄氏はこのチェッペリン伯飛行船に托して、小説「モン・アミ」一篇を「改造」へ寄稿して来たのだ。読んでみなくてもたいしたものではないことがわかつてゐる。

と揶揄している。実際にこの作品を読んだ小谷野敦氏も『久米正雄伝』384頁で、

『改造』に載った「モン・アミ」は、フランス到着以後の、画家たちとの交渉を描いたもので、相沢六(ママ)郎という、久米の知り合いの画家で鎌倉にいるパトロンから様子を見てきてくれと言われた男が、元娼婦のような女と同棲しているという話だ。出来は良くない。

と評している。さて、小説としてはつまらない作品ではあるが、登場人物のモデル探しは楽しい。既に、「久米正雄「モン・アミ」の登場人物を追って」(2010年10月2日)、「久米正雄と画家林倭衛」(5月23日)で言及しているが、主役の画家相澤八郎の正体が謎として残っていた。その謎解きにチャレンジしてみよう。

東郷青児私の履歴書」に、二科会の先輩として、海老名文雄という画家が出てくる。

セザンヌ張りの絵を描き、天才扱いされて会員名簿にも名前が乗ったほどだったが、妙なことであっけなくも転落していったものである。(略)
のちに、パリ郊外にあるムードンの三等郵便局で偶然会った*1けれど、その時はその郵便局の娘の聟になっていて、ドラン張りの絵を描いていた。

これを読んで、「モン・アミ」に出てくる相澤の次の発言を思い出した。

僕は確に日本に居る時は、セザンヌの真似をして、相応に認められて居た。そして巴里へ来ても、マチスの真似もすれば、ドランのやり方も真似、ルーオーも張れば、ユトリオ(ママ)も噛つて見、ピカソやブラックの追随者にもなれば、モヂリアニを巧みに模倣さへした。

日本でのセザンヌの真似から、渡仏後はドランの真似に作風を変えた点が共通している。このほか「モン・アミ」によると、相澤は、
・若年にしてN洋画会の会友
・渡仏してから五、六年以上
・渡仏した年に、一度だけ小さなスケッチ板位な風景を二枚ばかり送ってきたが、それきり一度も作画を見せた事がないばかりか、生活の近状さえ、杳として伝わらなくなった
・久米は、相澤の学生時代から本郷辺のカフェーで知り合いになって、割合に親しい友人だった

これに対して、海老名は、
大正8年数え30歳で二科会の会友
大正12年に渡仏したので、昭和4年で渡仏6年目になる
大正3年の第1回二科展から大正11年第9回二科展まで毎回出品しているが、渡仏した12年の出品は確認できない。『日本美術年鑑』の「現代美術家録」の大正15年版、昭和2年版には記載があるが、昭和3年版以降記載がない
・久米が海老名と面識があったかは不明だが、東郷と今東光がよく足を運んだ本郷三丁目のカフェー巴里には、久米も出入りしていた*2ので、そこで東郷の知り合いだった海老名とも知り合う可能性はある

海老名が二科会の会友となった30歳は若年と言えないから「モン・アミ」の若年にしてN洋画会の会友という記述とは合わないが、その他の点から見ると、相澤八郎のモデルは海老名文雄の可能性が高いと思うがどうだろうか。名前が「あ行」と「は行」の組み合わせという点も一致している。
なお、久米が海老名について言及しているのは、管見の限りでは、「二科展管見(十)」(大正8年9月27日付読売新聞)の次の記述である。

海老名文雄 氏のセザンヌ模倣は、今年はさう露骨でなくなつて氏独自のものが幾らか出て来たのは歓ばしいが、それと共に色調がやゝ悪どくなり、末派臭くなつて来たことも、争はれぬ悲しい事実であらう。

なお、「モン・アミ」で相澤と同棲している女の名前はイヴォンヌというが、林倭衛が同棲していた女もモデルのイヴォンヌという女*3で、相澤に関する記述の中には、林に関するものが含まれている可能性がある。

(参考)ググると、海老名の渡仏時期が大正10年としてあるが、大正12年5月28日付読売新聞や『日本美術年鑑』初年版(大正15年12月)の「現代美術家録」で大正12年と確認できる。海老名の経歴を同年鑑、『大正期美術展覧会出品目録』、『昭和期美術展覧会出品目録 戦前篇』などからまとめると、

海老名文雄 
明治23年2月東京生まれ(ただし、昭和14年12月5日付読売新聞夕刊には長岡市出身47歳とある)
大正3年3月〜7月 東京大正博覧会に「湖畔」「段々畠より」を出品
    8月 『みずゑ』8月号に「前途」を執筆 
   10月 第1回二科展に「斜陽」「猿沢池畔」「漁村」「冬の蘆の湖」「朝霧」「池畔其一」「池畔其二」を出品(住所は神奈川県程ヶ谷町七五四落合方)、第3回光風会展に「冬の箱根」「池畔の小女」を出品
  4年2月・3月 『みずゑ』に「自分の生活」を執筆
    8月 『みずゑ』に「南先生の画室へ」を執筆 
   10月 第2回二科展に「風景」「薮」「伊豆国」「静物」を出品、二科賞受賞
  5年3月〜4月 日本水彩画会展に出品
    10月 第3回二科展に「庭園の一部」「青いきもの」「山景其一」「山景其二」「山景其三」を出品 
    11月 『みずゑ』に「感想」を執筆 
  6年9月9日 第4回二科展招待日に関根正二、東郷、安井曾太郎、有島生馬らと出席(関根の日記)
    同月 第4回二科展に「丘の家」「湖と白樺」「風景」を出品
  7年9月 第5回二科展に「トマト畠」「休息」「窓際」「塔の丘」を出品
   12月 南清を写生旅行(同月16日付読売新聞)
  8年 9月 第6回二科会に「上海の川岸」「雨後海景」「海に浴する女」を出品。この年二科会会友となる
  9年9月 第7回二科展に「琵琶湖」「裸婦」「瀬田川の堰」を出品
10年4月3日〜5日 『時事新報』に「ゲランとマチス 大原氏のコレクションを観る」を執筆
    9月 第8回二科展に「外海」「坐婦」「草花」「菜園」を出品
  11年3月〜7月 平和記念東京博覧会に「卓上の花」を出品
  11年9月 第9回二科展に「アカシアの木立」「浴する女」「冬の風景」を出品
  12年5月 伏見丸で出港(同月28日付読売新聞によると、舟木重信も乗船。日本美術年鑑によると、留守宅は横浜根岸町西竹の丸三二一〇)
  14年7月現在 パリでの住所は7 rue Belloni(『巴里週報』創刊号附録「在巴里日本人一覧表」)
  15年1月6日 時事新報の大山泰雄「寅の文士と画家」に「海老名文雄は洋行中である。彼は二科のセザニアンとして覇を称して来た。帰朝土産には、何んな画を発表するか期待して居る」と書かれる。
昭和14年12月4日 鹿島丸で帰国
  15年5月25日 読売新聞に「“色彩と夢の平原”北仏の新戦場フランドルへ」執筆。仮アトリエは吉祥寺とある。
  15年8月〜9月 第27回二科展に「朝卓」「花の静物」を出品

*1:東郷は大正10年4月因幡丸で出航、6月パリ着、昭和3年5月帰国。

*2:田中穣『心淋しき巨人 東郷青児』新潮社、昭和58年4月

*3:小崎軍司『林倭衛』三彩社、昭和46年10月