神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

帝塚山学院短期大学講師時代の壽岳文章ー帝塚山派文学学会に期待ー


 田中克己は、昭和31年1月詩誌『果樹園』(果樹園発行所)を創刊。帝塚山学院短期大学で田中と同僚だった壽岳文章は、6号.同年7月に「金尾文淵堂のこと」を、11号,同年12月に「『悲歌』読後感」を寄稿している。前者は、5号,同年6月の田中「金尾文淵堂年譜稿」を受けて、金尾種次郎の思い出を書いたものである。後者は、田中の詩集『悲歌:詩集』(果樹園発行所、昭和31年11月)の発行を受けたものである。
 この時期の田中の日記は、「田中克己日記 index」で翻刻・公開されているので引用しておこう。

(昭和31年)
6月6日
(略)けふ壽岳博士「金尾の結婚の話かく」と。
6月13日
晴。午后出で沢田博士邸へ渋谷[ママ]敬三氏の会へとゆく。(略)欧州旅行の話さる。Hamburg博物館の民族学よしとなり。(略)梅棹忠夫君も来会せり(略)帰宅。壽岳博士「金尾文淵堂のこと」置きありし。
11月6日
(略)壽岳博士より歌3首。
11月14日
(略)壽岳博士に歌3首のせてよろしきときく。(略)

 6月6日の条の「金尾の結婚の話」は、「金尾文淵堂のこと」に書いた「大正十年に春江夫人と結婚したのは、それが「日本から日本へ」の出版に際し、蘆花からの有無を言はさぬ交換条件だつた」という話である。6月13日の条の「沢田博士」は、医師で民俗学者澤田四郎作で、日記に度々出てくる。11月14日の条の「歌3首」は、『果樹園』11号に載った「『悲歌』読後感」で、短歌3首で構成された『悲歌』の感想である。
 ところで、壽岳の帝塚山学院短期大学における肩書きである。「帝塚山学院物語」に「小野十三郎今東光寿岳文章庄野英二、杉山平一、田中塊堂、長沖一などの錚々たる教授陣」とあるので、てっきり教授かと思ってしまった。しかし、『庄野貞一先生追想録』(帝塚山学院昭和36年10月)に寄稿した「出藍の阿波人」における肩書きは、「元帝塚山学院短期大学講師 甲南大学教授」であった。また、『帝塚山学院四十年史』(帝塚山学院四十年史編集委員会、昭和31年11月)に、学院第二校歌について「現に短大部講師である寿岳文章が作詞」とある。担当学科目は、「英米文学史・図書学」であった。ただし、『田中克己日記』昭和30年3月9日の条に「教授会にて壽岳博士『戦後吟』*1会津八一に比肩すとほめらる」とあり、教授会に出席していたようである。
 壽岳が帝塚山学院短期大学の講師だったことは、『壽岳文章書物論集』(沖積舎、平成元年7月)の笠原勝朗編の年譜に記載がない。学院時代の壽岳の詳細については、外部の者では中々詳細は捉えがたい。帝塚山派文学学会の先生方に期待しよう。
 なお、下鴨小学校創立150周年記念事業として府立京都学・歴彩館の「下鴨小学校所蔵美術品展」(12月10日まで)に、田中と共に詩誌『骨(こつ)』(昭和28年11月創刊)同人で発行所が置かれた依田義賢関係の史料が「特別参考出品」として小コーナーになっていて、驚いた。

*1:田中克己『戦後吟:歌集』(文童社、昭和30年2月)