神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

鹿子木孟郎の妻鹿子木春子の日記(未公刊)に注目

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 存在が判明しているものの未公刊の日記については、「オタどんが死ぬまでに読みたい未公刊の日記群ーー堀一郎の日記はどうなった?ーー - 神保町系オタオタ日記」で言及したことがある。関西美術院第3代院長だった鹿子木孟郎の妻鹿子木春子の日記も、未公刊で気になるものである。この日記は、京都大学総合博物館で発見されたスウェン・ヘディンがチベットで描いた原画を関西美術院の画学生が模写した絵画の経緯を調べるために資料を管理している鹿子木良子氏から閲覧させてもらったものだという。
 ヘディンは明治41年来日した際に京大で講演し、チベットで画いたスケッチや水彩画の展示も行われた。日記によると鹿子木の自宅で模写作業が行われた旨の記述があるという。夫人の日記というのが面白い。画家本人は日記をつけていなかったのだろうか。いずれにしても未公刊の日記は検証もできないし、他の部分の記述も気になるので、翻刻・公刊していただきたいものである。
 なお、この模写は平成29年12月に京大百周年時計台記念館で展示され、講演会も開催された。研究の成果は、田中和子編・佐藤兼永撮影『探検家ヘディンと京都大学』(京都大学学術出版会、平成30年3月)として刊行されている。

土俗研究者にして日本学術探検協会理事長の三吉朋十もチャーチワードのムー大陸に騙された。そして、三島由紀夫も?ーー森谷裕美子「三吉朋十と土俗学」への補足ーー

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 平成8年6月『歴史を変えた偽書:大事件影響与えた裏文書たち』(ジャパン・ミックス)が刊行された。ここに掲載された藤野七穂偽史と野望の陥没大陸“ムー大陸”の伝播と日本的受容」には戦前ムー大陸に言及した未知の文献が多く引用されていて、感心したものであった。その後私も藤野著に記載されていない文献をかなり見つけている。詳しくは、「日本におけるムー大陸受容史ーー「日本オカルティズム史講座」第4回への補足ーー - 神保町系オタオタ日記」参照。今回新たに海軍有終会編『太平洋二千六百年史』(海防義会、昭和15年9月)の第2第4章第5節「熱帯太平洋諸群島」中に発見した。

 地理学者の説によると、太古熱帯太平洋上に、世界の半分を支配したのであらうと思はれるやうな文化を持つた大帝国があつたが、海底の大噴火に伴ふ陸地陥没のために此の大陸は忽然と滅裂して、其所に住んで居た幾千万の人々は悉く滅亡してしまつたが、唯だ当時文化があつたことを想像し得らるべき巨石文化がポナペ、パラオ、マルデン、イースター島などに、今尚ほ存在して居て其の当時の関係を知り得るのみである。この大陸をゼームス・チヤーチワードはMU大陸と名づけて居る。

 この部分の執筆を担当したのは、南洋経済研究所嘱託の三吉朋十であった。三吉については、ネットで読める森谷裕美子「三吉朋十と土俗学」『九州産業大学国際文化学部紀要』70号、平成30年に経歴・著作一覧が出ているので、詳しくはそれをみられたい。なお、上記著作は一覧に挙がっていない。三吉は、明治15年生まれで、札幌農学校中退後、南洋協会嘱託、台湾総督府嘱託等を務め、南洋の土俗等に関する著作が多い。
 森谷論文に補足すれば、三吉香馬名義でも著作がある。「国会図書館サーチ」で3件ヒットするほか、「ざっさくプラス」によると『南洋』に「南洋奇聞」を連載している。「香馬」が別名であることは、『現代出版文化人総覧昭和十八年版』(協同出版社、昭和18年2月)の「現代執筆家一覧」に出ていた。この一覧によれば、日印協会、比律賓協会、インドネシア協会、東京人類学会、南洋協会、東洋協会に所属し、日本学術探検協会理事長*1であった。研究者の諸君は、昭和戦前期の著述家で経歴不詳の人物がいた場合、本書を見た方がよいだろう。
 三吉の文中の「地理学者」は不明だが、「セルパン・皇国地政学・ムー大陸 - 神保町系オタオタ日記」で言及したように京都帝国大学文学部史学科教授で地理学者の小牧実繁が『セルパン』昭和18年2月号でムー大陸に言及している。ムー大陸に騙された地理学者がいるように、土俗研究者三吉もムー大陸を信じてしまったようだ。
 そして、最近「日本の古本屋」に三島由紀夫旧蔵のムー大陸本(大陸書房)が出品されていることが判明した*2。三島もまた騙されたのだろうか?
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*1:原文は「日本探検協会理事長」

*2:2冊出ていたが、売り切れている。

東北帝国大学工学部の山内清彦と禊の科学者成瀬政男ーー寸葉会で見つけた『学士試験成績簿』からーー

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 何年か前に寸葉会という絵葉書などの紙ものの即売会で、戦前の『学士試験成績簿』を購入した。東北帝国大学工学部電気学科の学生の成績簿である。東大や京大の文学部で更にある程度知名度のある人のものだったら、速攻で買いだ。しかし、これは東北帝大工学部に昭和5年に入学した山内清彦という未知の人物の成績簿である。迷ったが、1,000円だし『学士試験成績簿』の実物は初めて見たので購入。
 中には入学試験時の受験票や大学からの送付文、封筒も入っていてややお得であった。山内はグーグルブックスで検索すると、昭和8年東北帝大を卒業後同大の副手、助手を経て11年山梨高等工業学校教授となり、戦後は福井大学教授だったようだ。まったく無名の人ではなかった。
 タイトルから「学士試験」というペーパー試験が実施されたように思ってしまうが、そうではない。昭和6年度から7年度までの科目試験と論文試験(卒論だろう)の記録である。成績簿と言っても、優良可等の成績の記載はなく、授業教官・試験科目毎に、合格年月日と認印の欄があるだけである。科目は、数学、力学、機械工学通論のほかは、すべて電気関係の科目である。語学や教養の文系科目は、学士試験とは無関係のようだ。
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 教官名で知っているのは、八木アンテナで知られる八木秀次だけだった。機械工学通論の成瀬政男助教授は、吉葉恭行・加藤諭・本村昌文編『帝国大学における研究者の知的基盤:東北帝国大学を中心として』(こぶし書房、令和2年3月)の吉葉「第七章 成瀬政男の科学技術思想とその知的基盤」に出てきて面白い記述があるので、紹介しておこう。
 吉葉論文によると、戦時下の成瀬の科学技術に関わる著述活動で注目すべきキーワードの一つが「禊」であった。成瀬は、昭和18年の『科学朝日』に掲載された横光利一との対談によると、禊を10年もやっていたという。そして、

 また成瀬は、「対症療法なくして」科学技術を発展させると、「人類は滅亡の方向にゆく」と述べ、「科学技術は劇薬」であり「劇薬」を「良薬」にするための「心構へ」が「禊の精神の中に存在する」から科学者や技術者が「禊」を行ったほうが良いという考えも示している。

 更に一戸富士雄論文*1に言及していて、同論文によると、成瀬の『日本技術の母胎』(改訂普及版)は戦後の昭和20年10月発行であるにもかかわらず、「必勝」の信念を平然と吐露している本で狂信的であったこと、科学者としての技術論の根底にあるのは、技術は神の御稜威の一つの現われという「神道的技術論」だったとされている。何とも、注目すべき科学者だった。
追記:紀田順一郎監修・荒俣宏編『平井呈一:生涯とその作品』(松籟社、令和3年5月)146頁に成瀬が出てくる。

成瀬は千葉の出身であり、この年(昭和29年ーー
引用者注)スイスに歯車研究に行く前の休養を兼ねて、程一の家の家主でもある医院に通ってきていたが、たまたま小泉八雲の平井訳本を読んで感動し、訳者への面会を求めてきた。この博士は、八雲が興味を持った古き日本の良さこそが「日本を立て直す力になる」と語ったという。

*1:一戸富士雄「一五年戦争と東北帝国大学」『一五年戦争と日本の医学医療研究会会誌』第3巻第1号、平成14年

「西の田村敬男か、東の赤尾好夫か」と呼ばれた大雅堂の田村敬男と松代大本営への印刷所移転ーー下鴨納涼古本まつりで見つけた『京都綜合製版沿革史』からーー

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 下鴨納涼古本まつりの初日、福田屋書店の1冊200円3冊500円台では、1冊だけ購入。キリスト教関係の良さげな本が幾つか出ていた。しかし、既にリュックが重たくなっているので、『京都綜合製版沿革史』(京都綜合製版協同組合、昭和56年10月)だけを購入したのである。目次を挙げておく。
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 「先覚者・業界人名鑑」が資料として役に立ちそうだ。今回は、「ルーツ座談会Ⅲ 活版と写真製版」から引用してみよう。

松崎 (略)京都の印刷業界も昭和19年の3月に 企業整備が完了したんですがね 京都で625軒の業者が165軒に減りまして 72%の廃業ですわ(略)
司会 終戦後大雅堂の田村さんから聞いたんですが 供出されたものを木曽路を松代までトラックに印刷機械やら活字やら乗せて運んだそうです。大本営が向うへ行くので 和田さんとこの軍隊用の本を松代で作ろうというわけだったのですな。むこうまで着いたら 大本営は来んちゅうことになって 今さら兵書を作って兵隊に読ましてても もう間に合わんということで 京都から持って行った機械が松代かあの辺で 終戦になった事を聞きました。当時東京や大阪は焼けたので 京都の印刷機が長野県へ運ばれたのでした。

 大雅堂の田村は、「関西で公職追放になった二人の出版人 - 神保町系オタオタ日記」などで紹介した田村敬男ですね。大雅堂は、戦時中の企業整備により田村の教育図書を母体に芸艸堂、兵書の武揚社(和田忠次郎)などが統合して設立された。文中の「和田さん」は、和田忠次郎だろう。田村は、戦前日本出版文化協会で「西の田村か、東の赤尾か」と呼ばれていた。赤尾好夫と並び称されるほど大物だった田村が松代に印刷所を移そうとしていたのか。
 調べてみると、事実関係は若干異なるようだ。田村敬男編『或る生きざまの軌跡:人の綴りしわが自叙伝』(田村敬男、昭和55年11月)の飯田助左衛門「わが師父、田村さんとの五十年」には次のようにある。

 いよいよ敗戦の色濃くなった頃、軍部からの命令により、戦時研究員の研究成果を本にまとめることになり、何点かのパンフレット程度の本を出版しました。(略)敗戦の結果を予測し得ず、「一億玉砕」を呼号する軍部の戦争終結の方法を予見することが出来ないため会社を挙げて信州木曽谷の三留野に疎開することになりました。印刷、製本工場など出版に必要な設備も一緒に疎開し、第一陣として私が出発した日の昼頃、名古屋駅付近で、聞き取りにくい、終戦詔勅を聞きました。しかし、敗戦の結果がどのようになるか皆目判らないので、私はそのまま木曽谷の寒村に赴任し、印刷工場の建設に従事しました。(略)

 これによると印刷所などの移転は、長野県の旧読書村三留野(現南木曽町)だったようだ。松代とはかなり離れている。また、田村『荊冠80年』(あすなろ、昭和62年7月)によると、大雅堂で湯川・荒勝先生を中心に『物理学大辞典』を編集していた際に湯川が「敵はおそらく中性子爆弾を完成しているか、或いは完成の域に達しているかも知れない」と語っていた。田村は、新型兵器を作るにも青写真と製作図型製作指導要領を印刷することが必要で、そのため印刷関連工場などを疎開する必要があり、王子製紙中津川工場に近い読書村を選定したという。そして疎開完了した印刷工場を日本出版助成株式会社に売り、戦後大同印刷株式会社になったとしている。湯川(秀樹だろう)のあり得ない発言と言い、戦時中の工場の売却にしろ田村の記憶違いと思われる。大雅堂の取締役・編集部長だった飯田の記述の方が信用できそうだ。
 松代大本営への印刷所の移転は無かったが、田村については注目すべき事績が色々ある。たとえば、次のようなものである。

・滝川事件に際して、政経書院から『京大問題の真相』『京大問題批判』等を刊行
・戦前中井正一邸で服部之総から学友として日出新聞社長の後川晴之助を紹介される
・戦後の公職追放後、日本科学社を創立。『建設工学』(京大工学部棚橋(建築)と石原(土木)両教授を顧問とする土木建築関係の学会雑誌)、『心理:Psukhe』(京大矢田部達郎教授を中心とする心理学雑誌)や『人文地理』(藤岡謙二郎を中心とする人文地理学会機関誌)の発行
・戦後李徳全中国紅卍字会代表団の来日に際し、京都における歓迎実行委員会の事務局次長

 田村は、明治37年11月長野県東筑摩郡里山辺村生、昭和61年12月没。オーラルヒストリーを記録して欲しかった人物である。

昭和8年スチーム暖房に惹かれて北白川に引っ越した京都帝国大学植物学教室の北村四郎ーー下鴨納涼古本まつりで竹岡書店から見つけた年譜からーー

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 下鴨納涼古本まつりが無事開催された。雨で2日間中止というハプニングもあり、主催者・参加店は大変だったと思う。お疲れ様でした。恒例の竹岡書店の3冊500円台は、従来の1冊売り不可から3冊まで500円(1冊でも2冊でも500円)になり、3冊揃わないと家に帰れないという無間地獄は回避された(^_^;)
 更に、竹岡書店の均一台は、会期最後の2日間5冊まで500円になっていた。最終日、さすがに5冊揃えるのは時間がかかり、2冊で止めとこうかと思ったりした。それでも諦めずに、5冊揃えることができた。
 1冊目に見つけたのが、北村四郎『年譜』(昭和57年4月)、非売品、48頁である*1。北村は、京都帝国大学京都大学理学部で植物学科教授だった人物である。このところ京大理学部ネタを書いているのと、年譜の昭和8年の欄に「北白川西町に洛東アパートが新築され、暖房がスチームなので、ガスストーブの京都アパートから引越した」とあるのが面白く買ってみた。北村も北白川に住んでいたことになる。しかも、引っ越した理由が暖房がスチームだからというのが注目である。北村の略歴はWikipediaに出ているので、そこに出てない面白い記述を『年譜』から要約して引用しておこう。

大正14年 静岡高等学校で、国文学講義を東条操教授から聞き、日本文化に関心を持つ。
昭和3年4月 京都帝国大学理学部植物学科に入学。相国寺普広院に下宿。京都では、室を貸すだけで食事は別に食堂でとるのが普通であった。そのため、病気になった時は困った。
入学後さっそく小泉源一助教授に、植物分類学専攻を願い出た。嘱託田代善太郎に紹介される。時々図書室に入り、カーチス・ボタニカルマガジンを見るとぞくぞく楽しく、便秘の時はこの本を見ると正常になった。
昭和6年 京都帝国大学理学部卒業。普広院を出て百万遍の京都アパートに移る。
昭和7年1-4月上旬 台湾に植物採集。台北大学を訪問。工藤祐舜教授が死去した直後であった。助手正宗厳敬の室に机を借りる。3月中旬館脇操とタロコで共同採集 
昭和9年1-3月 垂水で療養しながらキク科を研究
同年4月 京都洛東アパートに移る。近くの室のシナリオライター内田徳司と西洋音楽のレコードから友人となる。のち氏の喫茶店「若者」へよく行く。また、レコード店で喫茶店でもある「アルファー」へよく行く。
昭和20年8月15日 理学部植物園の圃場内で終戦を知り、植物学教室事務室で終戦詔勅放送を聞く。

 本人しか書けない面白い記述が多い。死後第三者が年譜を纏めてもこうはいかない。この貴重な『年譜』、国会図書館や京大の図書館にはなく、余所の大学が持っていたりする。先生方は、私家版を発行したら知人に配る前にまず自校の図書館に必要かどうか確認した上、寄贈しましょう。
 北村は学生時代に植物学教室嘱託田代と知り合い、以後親しくしている。田代の日記*2で確認しておこう。

(昭和4年1月)
10. 木. (略)
 晃二をして、北村四郎氏よりもらひたるかもやミカンを福島(繁三)氏に贈らしむ。
(昭和14年12月)
18. 月. 三木(茂)北村(四郎)芦田(譲治)の3博士を祝するため「東洋花壇」(吉田山東中腹にあった料亭)にて同人会を開く。
(略)
( )内は、編者による注

追記:『北村四郎選集』5巻(保育社、平成5年7月)は、「年譜とその追加」として『年譜』(明治39年~昭和56年)と平成5年までの追加を掲載している。
参考:「北白川と京大の切っても切れない深い関係ーー『学校で地域を紡ぐ:『北白川こども風土記』から』と『北白川教会五十年史』からーー - 神保町系オタオタ日記」、「京都帝国大学の学知ーー『田代善太郎日記』で見る京大山脈(戸田正三、今西錦司、三木茂、駒井卓ら)ーー - 神保町系オタオタ日記
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*1:私家版と思われる。印刷者は昭和57年5月から『北村四郎選集』を刊行する保育社

*2:田代晃二編『田代善太郎日記昭和篇』(創元社、昭和48年10月)

『子供の科学』の表紙・記事を分析した神野由紀・辻泉・飯田豊編著『趣味とジェンダー:〈手づくり〉と〈自作〉の近代』(青弓社)

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 昭和12年10月柴田宵曲は、大橋図書館日比谷図書館である雑誌を探していた。大正13年に創刊された『子供の科学』(誠文堂新光社)である。『日本古書通信』昭和58年3月号掲載の「柴田宵曲翁日録抄(21)」から引用する。

(昭和十二年)
十月二十二日
 午後大橋図書館行。森氏より申越されし「子供の科学」しらべしに昭和六年以降の分ならべはなし。市町村史つぎ/\借る。収穫乏し。
十月二十五日
 午後日比谷図書館に行く。はじめてなり。少時一度来りしは児童室のみ。而も「子供の科学」は児童室なりといふに、その方に行きてたづねなどす。古きは存せぬよし。「もめん随筆」借りたれどなし。(略)森銑三氏を訪ふ。

 『子供の科学』のバックナンバーを探したが、見つからなかったようだ。現在でもすべてを閲覧するのは一苦労のようで、第2部「〈自作〉する少年共同体」で創刊から昭和35年までの同誌の表紙・記事を分析した神野由紀・辻泉・飯田豊編著『趣味とジェンダー:〈手づくり〉と〈自作〉の近代』(青弓社、令和元年6月)には、次のようにある。

[付記]第2部で分析した「子供の科学」の資料収集にあたっては、各地の図書館に大変お世話になった。本調査の資料は兵庫教育大学附属図書館、東京都立多摩図書館昭和館、北海道道立図書館、夢の図書館、国立国会図書館国立科学博物館天理大学附属天理図書館の蔵書を利用した。(略)

 しかし、これらの図書館を使っても「どうしても収集できなかった号などもあった」という。戦前からの雑誌を研究するのは大変である。
 「第5章科学雑誌から生まれた工作趣味、鉄道趣味ーー戦前/戦中/戦後の「子供の科学」の内容分析から」(辻泉)によると、戦前分(大正13年昭和5年)の表紙に「登場するヒト、もの」で最も多いのは「その他の成人男性(およそ二十歳以上)」が41.9%、次いで「少年」が37.8%である。確かに家蔵の昭和3年11月号は、特集が「素晴しい昔の文明」であることもあって、ピラミッドやスフィンクスの前でラクダに乗る成人男性と思われる人物だ。目次を挙げておく。
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 森銑三「地理学者古川古松軒」が掲載されている。柴田は森の記事が載った号を探していたのかもしれない。
 「戦中」(昭和6年~20年)の表紙で最も多いのは、「すべての飛行機」42.6%(うち「戦闘機」24.3%)、次いで「全ての船舶」34.9%(うち軍艦18.9%)である。家蔵の昭和13年2月号及び5月号は船舶である。「戦後」(昭和21年~35年)の表紙で最も多いのは、「そのほかの機械類」15.3%、次いで「その他の動物(魚類、爬虫類、哺乳類など)」14.8%である。家蔵の昭和21年5月号は、プランクトンである。なお、『趣味とジェンダー』は、『ジュニアそれいゆ』と『子供の科学』という少女雑誌・少年雑誌の分析により、手づくり趣味の近現代史を研究したもので、両誌の比較が面白い。
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ISBN:9784787234520:detail

田所廣泰・小田村寅二郎らが創立した日本学生協会で指導的役割を果たしたとして公職追放になった経済学者山本勝市

 『公職追放に関する覚書該当者名簿』によると、経済学者山本勝市の公職追放該当事項は、「国民精神文化研究所々員学生協会に於て指導的役割を演ず」である。山本は昭和7年から18年まで国民精神文化研究所の所員であったので前半の方はよいとして、後半の方が確認できない。
 「学生協会」とは、昭和15年に田所廣泰や小田村寅二郎らが創立した日本学生協会と思われる。井上義和『日本主義と東京大学:昭和期学生思想運動の系譜』(柏書房、平成20年7月)を見ると、66頁の注に「小田村寅二郎や田所廣泰らと近い関係にあったため、精神科学研究所メンバーの一斉検挙の後に、山本も取り締まり当局から圧迫を受けるようになり、勤めていた国民精神文化研究所に辞表を提出せざるをえなくなる」とあるものの、日本学生協会との関係は不明である。伊藤隆「山本勝市についての覚書・附山本勝市日記」(1)~(3)『日本文化研究所紀要』1~3号、亜細亜大学があるようなので、それを見ればよいのかもしれない。佐藤卓己先生なら御存知だろうか。
 ところで、「昭和二十一年勅令第二百六十三号の施行に関する件」*1(昭和21年閣令、文部・農林・運輸省令第1号)を見ていたら、教職員不適格者として審査委員会にかけないで指定を受けるべき者の範囲を定めた別表第2の第5項に日本学生協会が出てきた。時期を問わず役員、要職者、編集者等であったものが自動追放となる指定団体として、原理日本社と並んで日本学生協会が挙がっている。日本学生協会の役員等は、教職員を自動追放になったのである。
 なお、同表第4項は昭和12年7月7日から20年9月2日までの間の通算2年以上の在職者について自動追放とする官職として、国民精神文化研究所等の勅任官及び奏任官を挙げている。国民精神文化研究所の所員として京大を教職追放となった西田直二郎は、これに該当したのだろう。

*1:正式名称は、「昭和二十一年勅令第二百六十三号(昭和二十年勅令第五百四十二号「ポツダム」宣言ノ受託ニ伴ヒ発スル命令ニ関スル件ニ基ク教職員ノ除去、就職禁止及復職等ノ件)の施行に関する件」