神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

関西で公職追放になった二人の出版人

戦時中の企業整備による統合後の大雅堂(教育図書が母体)の代表者となった田村敬男だが、戦後公職追放となる。これについて、田村は『荊冠80年』(あすなろ、昭和62年7月)136頁に次のように書いている。

(略)わが大雅堂が、G・H・Qから公職機関に指定され、僕は公職追放の身となった。
この時、関西では、立命館大学出版部とその責任者であった富田正二君と僕との二人だけが、追放の身となった*1
僕の記憶に間違いがなければ、富田君はその後、河原町二条西入るで喫茶店を経営していると聞いていたが、お互いに追放後一度も会っていない。

公職追放に関する覚書該当者名簿』によると、田村は「日本青年教育会出版部代表」、富田は「立命館(ママ)常務理事」が該当事由である。日本青年教育会と立命館出版部は共にいわゆる「G項該当言論報道団体」に指定されている。田村自身も前掲書110頁で、

ここで一応政経書院の活動を中止し、その頃東京で友人の藤岡淳吉のやっていた日本青年教育会の青年学校の教科書出版をする事となり、宝文館を一手取り扱い店とする事が決定して、その代表者に僕が指名され就任した。(略)
この当時、藤岡淳吉が東京で、助川啓四郎、船田中氏等がやっていた東亜同志会編のパンフレット十点を代表名義人であった僕の名前で出版した。これが戦後、出版界追放の十点となろうとは知る由もなかった。
この青年教育会出版部も途中で辞し、合資会社政経書院を組織変更して教育図書株式会社に改める(略)

東亜同志会編のパンフレットというのは不明だが、例えば国民精神総動員中央連盟編『戦時農山漁村読本』(日本青年教育会出版部、昭和13年5月)の発行者は田村である。
ところで、『公職追放に関する覚書該当者名簿』は、ある人物が戦前何をしていたかを調べるのに有用なツールでもあるのだが、アルファベット順で見づらい。相当の作業になるが、リバーフィールド氏あたりが出版人だけ抜き出して五十音順の名簿を作ってくれたらなあ。

*1:田村が代表の大雅堂と富田が代表の一人であった京都印書館は、主要公職が「退職させるもの」とされた団体に指定された。