神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

昭和初期における健康雑誌の時代ーー『健康之友』(健康之友社)・『健康時代』(実業之日本社)・『健康之光』(健康之光社)ーー

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 平安蚤の市で@pieinthesky氏から『健康之友』と『健康之光』を入手。既に所蔵している『健康時代』と併せて、昭和初期の3種類の健康雑誌が集まった。写真のとおり、同じような表紙である。それぞれの創刊時期は、
『健康之友』(健康之友社)大正13年創刊(推定。第三種郵便物認可は昭和2年11月)
『健康時代』(実業之日本社)昭和5年8月創刊
『健康之光』(健康之光社)昭和6年3月創刊(大阪教育大学附属図書館が所蔵)
 創刊時期から言うと、先行する『健康之友』が売れているのを見て、他誌が真似して発行したと推定できる。
 健康雑誌については、田中聡『健康法と癒しの社会史』(青弓社、平成8年9月)26頁が言及している。

 昭和初期には、『健康時代』(昭和五年=一九三〇年創刊)や『健康日本』(昭和七年=一九三二年創刊)などといった健康雑誌が出版されている。それまでにも『家庭娯楽 衛生新報』(明治三十七年=一九〇四年創刊)などの衛生啓蒙の雑誌はあったが、「健康」という言葉を冠した一般向けの読み物雑誌は、(あくまで入手できた資料の限定のなかで言うことだが)この頃に初めて登場してきたように思われる。(略)

 『健康之友』は、田中氏も未見の健康雑誌ということになる。田中著のほか、戦前の健康雑誌に関する論文を読んだ気がするが、思い出せない。これらの健康雑誌で面白いのは、時に霊術や心霊学に関する記事が載ることである。たとえば『健康之友』昭和5年8月号の目次を挙げておこう。
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 霊感透視家山本精一郎の「霊感透視に依る病気の遠隔診断」が出ている。山本については、「内田文庫主任彌吉光長と霊感透視家山本精一郎の『民俗の風景』(朝日書房) - 神保町系オタオタ日記」で言及したことがある。同誌昭和8年10月号には、松岡陽一郎「疑問児・濱口熊嶽師を語る」、『健康時代』昭和5年8月創刊号には小熊虎之助「霊の交通は可能であるか」や清茂基「西式強健術を天下に奨励す」、『健康之光』*1昭和7年10月号には林鶴導「神秘の扉を開く:瞬間催眠術の公開」が掲載されている。国会図書館サーチを見ると、これらの健康雑誌はほとんど所蔵されていない。しかし、研究者の皆様には戦前における健康雑誌の全貌の解明を期待したいものである。
参考:「戦前の京都で発行された健康雑誌『かゞやき』と富田精・富田房子夫妻 - 神保町系オタオタ日記

*1:井村宏次『新・霊術家の饗宴』(心交社、平成8年12月)は、口絵「主として雑誌文献に見る霊術家の時代」に『健康之光』昭和8年12月号の書影を挙げ、「このころより霊術から健康法へという流れが勢力を強めてきた。本誌には霊術色がほとんど見られず、本流医学と民間療法をミックスした誌面づくりとなっている」としている。

伊達俊光の大阪文化女塾の創立と終焉ーー本野精吾や田代善太郎が講義ーー

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 ツイン21古本フェアで入手した伊達俊光『大大阪と文化』(金尾文淵堂、昭和17年6月)については、「ツイン21古本フェアではどんだけ?こんだけ! - 神保町系オタオタ日記」で言及したことがある。この本に出てくる伊達が昭和5年に創設した大阪文化女塾も気になる団体である。同書382頁によると、

 本塾は昔の学塾風の人格主義を基調とし、高女卒業生若くは同等の学力ある女性に対して尚一二ヶ年、新時代に即せる主婦たるべき素養を積ましむるために、先づ高女時代に詰め込まれたる種々の智能の整理、消化を計る事に努め、健全なる文学、芸術の身読鑑賞、育児衛生、看護、薬餌、営養等の家庭医学上の智識並びに現代日常生活に必須なる科学的智能、又実生活に処し主婦の心得おくべき法律、経済、実技の一般を授くると共に、此等各種の講話と相俟つて鑑賞と見学を盛んにし学問と実際の関係を弘く会得せしむることを期してゐます。

 講師が豪華で、京都からは本野精吾(美術工芸・エスペラント)、見波定治(優生学)、田代善太郎(植物)、鈴木鼓村(和楽)らが参加した。また、移動教室として、京都帝大の考古学蒐集館*1で濱田青陵の説明を聴いたり、四条通のフルーツ・パーラー八百常で設計者の本野から店の家具、照明、メニューの意匠などの説明を聴いている。
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 創立当初の様子は、『南木芳太郎日記一:大阪郷土研究の先覚者』(大阪市史料調査会、平成21年12月)にも記載されていた。

(昭和五年)
三月九日 晴 暖
(略)
『道頓堀』三月号、大阪文化女塾より規則書数枚送り来る。(略)
四月二十一日
大阪文化女塾塾式、午前十時。
(略)仏教会館に於ける文化女塾の開塾式に臨む。十時半開式君ヶ代、塾長の挨拶、野田博士の挨拶(賛助員)、荒川重秀氏の講師代表挨拶、来賓代表として福良氏の挨拶にて閉会。(略)
六月二十五日
(略)
『会と催』、『虎屋時報』、『大学堂古書目録』、『杉本目録』、『文化女塾学報』
(略)
八月三日
(略)
『虎屋時報』、タツミヤ書店目録、大阪文化女塾伊達君より塾報(略)

 規則書や塾報(学報)が残っていれば、見てみたいものである。持っているとしたら、橋爪節也氏や故肥田晧三だろうか。
 1年目には、かろうじて20名ほどの入塾者がいたが、2年目の卒業生は6名しかいなかった。理想は高かったが、需要がなかったようだ。3年目の志望者は裁縫、割烹、花や茶のみの実科生だけになってしまい、昭和7年夏に閉塾となる。
 南木が主宰した雑誌『上方』23号(上方郷土研究会、昭和7年11月)の「萍水日誌」に閉塾直後の伊達に関する記載があった。

(昭和七年)
十月八日 (略)
 伊達南海氏文化女塾を閉ぢ、天王寺南門前に大阪名物義太夫煎餅の店を開業す、本日友人発起し、午後二時より附近の超願寺(義太夫の墓ある所)に於て開店祝賀の茶話会を催す、来会者頗る多く盛会なり。

*1:文学部陳列館のことか。

日本人は広島への原爆投下まで原子爆弾の存在を知らなかったという俗説の誤りーー中尾麻伊香『核の誘惑』(勁草書房)からーー

 ざっさくプラスで「原子爆弾」をタイトルに含む記事を検索すると、次のような結果となる。
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 昭和20年に初登場(23件)するまでは、見事にゼロである。これを見ると、広島に原爆が投下されるまでは、軍人や物理学者などを除いた一般の日本人は原子爆弾という兵器の存在を知らなかったと思い込んでいる人は、やはりそうだったかと納得してしまうだろう。
 しかし、戦前・戦中を通して原子爆弾については様々なメディアで紹介されていた。このざっさくプラスでヒットする昭和20年の23件のうち1件も、実は『国際グラフ』昭和20年1月号掲載の無記名「科学と経済 原子爆弾」で、ヒロシマ以前である。これ以外のタイトルに「原子爆弾」を含まない記事も含めた多数の事例が、中尾麻伊香『核の誘惑:戦前日本の科学文化と「原子力ユートピア」の出現』(勁草書房平成27年7月)に詳しく紹介されている。
 中尾著から幾つか事例を紹介しておこう。『新青年』(博文館)大正9年8月号掲載の岩下孤舟「世界の最大秘密」には、「日本に居て米国の市街を灰燼に帰せしめる力」「原子爆弾の威力は堂々たる大戦艦も木端微塵」などの小見出しが付いている。昭和15年8月号から翌年3月号の『譚海』(博文館)に連載された海野十三の軍事SF小説「地球要塞」にも、「原子を崩壊して、これをエネルギーに換える」原理を使った「原子弾破壊機」が登場している。
 また、仁科芳雄らが頻繁に核分裂を兵器に利用する可能性について語り始めた昭和16年の開戦前の時期に、「原子爆弾」という言葉が大衆メディアにあらわれたという。『日の出』(新潮社)同年4月号に鈴木徳二「一瞬に丸ビルを吹き飛ばす 原子爆弾の話」という記事が載った。更に、高崎隆治*1は小学生*2の時に『新人』(英語通信社)の昭和16年9月号か10月号で原爆記事を読んだという。この高崎の回想は、『新潮社の戦争責任』(第三文明社、平成15年8月)に掲載された。これに補足すると、高崎は『戦時下の雑誌:その光と影』(風媒社、昭和51年12月)146頁で、『新人』昭和16年9月号(航空特集)の目次を紹介した後、同誌について特記すべきは、先進国のどこかが原子爆弾を完成し、第二次世界大戦に決着を付けると予言したことであるとしている。そして、「原爆の開発に各国が血眼になっていたことやその性能についても国民はまったく知らなかったという俗説は訂正されるべきだろう」と述べている。なお、中尾氏は言及していないが、この『新人』は、中尾著242頁で紹介される佐橋和人「新兵器として見た殺人光線の存否」を掲載した『フレッシュマン』昭和15年12月号の改題誌である。このように原子爆弾は様々な形で戦前・戦中に紹介されていて、広島に落とされた新型爆弾が原子爆弾と直ぐに気付いた日本人もかなりいたはずである。私が読んだ誰かの日記にも、原子爆弾だと気付いた教員が出てきた気がする。
 なお、「ざっさくプラス」は随時追加されているので、前記『日の出』の記事も含め、タイトルに「原子爆弾」が含まれるヒロシマ以前の事例が今後増えていくであろう。また、進化し続けているツールで、今後とも活用していきたい。
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*1:原文では、「高橋隆治」

*2:ママ。正しくは、中学生

占領下の雑誌『月刊中国』(中国新聞社)に寄稿した宮本常一と竹中郁

 「大東亜学術協会の機関誌『学海』ーー敗戦を巧みに生き延びた戦時下の雑誌ーー - 神保町系オタオタ日記」で紹介した『学海』2巻7号(秋田屋仮事務所、昭和20年8月)には、「次号予定」が出ている。
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 宮本常一の名前がある。ネットで読める菊地暁先生の「人文研探検―新京都学派の履歴書(プロフィール)―| 菊地 暁(KIKUCHI Akira)」によると、宮本はこれ以降『学海』を改題した『学藝』昭和23年9月号まで6回執筆している。今回宮本の戦後の日記*1を見ると、宮本は別の雑誌にもしばしば寄稿していたことが分かった。
 中国新聞社が発行した『月刊中国』という雑誌である。「国会図書館サーチ」の書誌情報によると、昭和21年5月創刊で24年3月号から『読物中国』に改題している。21年8月の「原子爆弾記念号」は著名のようだ。宮本の日記によると、昭和21年に同誌のために「物売り」(6月3日)、「出買船」(6月12日から7月7日までの予備欄)、「遊女のはなし」(9月8日)を執筆している。その外、7月10日の条には「瀬戸内海の文化」はずっと連載されるとの記述もある。気になる雑誌である。
 更に竹中郁の年譜*2昭和24年1月の条に「エッセイ「ジャン・コクトオの横顔」を「月刊中国」(中国新聞社)に発表」とあるのも見つけた。ますます実物を見てみたい雑誌であるが、あまり残っていないようだ。『月刊中国』は広島県立図書館がある程度所蔵。『読物中国』は広島市立中央図書館が昭和24年3月号から同年10月号(プランゲ文庫のマイクロ)、国会図書館が同年7月号から25年2月号まで所蔵。「日本の古本屋」には『月刊中国』が2冊出品されたが、売り切れている。「ざっさくプラス」経由で「20世紀情報データベース」を見ると24年の『読物中国』の185件がヒット。全体的に面白そうな記事は少ないが、保田勝馬「妖怪ばなし」など幾つか気になるタイトルがある。地方とは言え新聞社の出していた雑誌でも中々残っていないものですね。

 

*1:宮本常一写真・日記集成別巻』(毎日新聞社、平成17年3月)

*2:竹中郁全詩集』(角川書店、昭和58年3月)

『東壁』(関西文庫協会)の編集委員川村猪蔵は、日出新聞記者だった

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 『図案会誌』2巻1号(京都図案会雑誌部、明治40年4月)の編集人に川村猪蔵という人がいた。このことは、「明治期の京都における染織図案史の修正を迫る『京都図案会誌』を発見 - 神保町系オタオタ日記」の注で言及したことがある。今回、その川村の経歴が判明した。文芽(あやめ)という筆名で日出新聞(京都新聞の前身)の記者だった。
 島田康寛 『京都の日本画:近代の揺籃』(京都新聞社、平成3年7月)に出てきたのである。この本は、村上文芽が『日出新聞』大正8年7月1日から11月27日まで連載した「絵画振興史」に島田氏が解説を加えたものである。同書の「あとがきに代えて」に、村上文芽の本名を猪蔵とし、経歴を紹介している。
 川村の経歴を要約しておこう。

村上文芽(川村猪蔵)
慶応3年5月5日 呉服商の川村巳之助、あいの長男として京都五条に生まれる。次弟万蔵は、日本画家の川村曼舟
明治27年12月頃 中央大学で学んだ後、日出新聞に入社。同じ頃黒田天外*1も入社。編集局には、主筆の雨森蝶夢、中川霞城、金子靜枝*2、堀江松華、宮野義太郎がいた。 
明治35年 村上イトと結婚して、村上姓となる。
明治37年 『京都名所地誌』(中村弥左衛門)刊行
明治39年 西陣織物同業組合の委嘱で中国、朝鮮に渡り織物の組織と図案を調査
明治40年5月 京都における洋画家の集まり「二十日会」の例会に出席
明治41年5月頃 東京の有楽社に短期間勤務
大正13年 新聞記者30周年記念に京都の画家達に絵を書いてもらい、美術倶楽部で展覧会を開く。その後間もなく退社
大正15年 『蝶夢居士』(蝶夢居士伝記編纂事務所)刊行
昭和2年 『近代友禅史』(芸艸堂)刊行
昭和5年4月14日 没

 「京都図案会幹事、日本図案会評議員だったという記録もある」ともあるので、同定できる。拙ブログで何回か紹介した金子や黒田と同僚だったのである。更に川村は図書館史にも関わる人物であったらしい。『図書館の学と歴史:京都図書館協会十周年記念論集』(京都図書館協会、昭和33年7月)の竹林熊彦「関西文庫協会ーーその歴史的意義」によると、関西文庫協会の機関誌『東壁』(明治34年4月創刊)の編集委員は前川亀次郎(三高)、富岡謙三(同志社女学校)、金太仁策(染織学校)、笹岡民次郎(京大図書館)、三宅五郎三郎(前京都府立図書館長、簡易商業学校長)で、後に湯浅吉郞、川村猪蔵が加わったという。『東壁』は4号、明治35年3月まで発行されたので、川村は明治34年か35年に関与していたことになる。
 ただ、他の編集委員の肩書きと比較すると新聞記者が関与するのはやや異質なので、別途同定する資料が必要ではある。後年ではあるが、明治37年6月3日に開催された京都図案会の例会で湯浅京都府立図書館長が行った講演「写生と心の力」の概要が家蔵の『京都図案会誌』(京都図案会事務所、明治37年7月)に掲載されている。同一人物の可能性は高そうだ。

昭和8年度京都帝国大学工学部土木工学科卒業生の同窓会誌『恒友会誌』ーー帝国日本の土木技術者たちーー

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 昨年の秋無事に開催された知恩寺秋の古本まつりで「indigo book」の均一台から見つけた『恒友会誌』創刊号(恒友会、昭和9年9月)。62頁、非売品。恒友会は、会則を見ると昭和8年京都帝国大学工学部土木工学科卒業生及び之に準じる者で構成される。会の命名は、瀧山興教授であった。
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 土木工学科でなく建築学科だったら面白そうだが、それでも買ってみた。「土木教室近況」に、
・5月31日楽友会館で土木会春季例会があり、武居教授の講演「満洲国の都市計画について」があった
・5月31日夜から6月1日早朝にかけて大阪駅高架切替工事の見学に土木の学生60人位が参加した
・工学部特別講演として、土木教室第1回卒業生で元満洲国鉄道局長藤根壽吉の講演「満洲の土木事業について」があった
・夏休みには高橋・武居両教授は満洲方面の視察に行く予定
とあって、満洲国ネタなどがあったからである。「武居」は日本初の都市計画担当教授である武居高四郎*1。武居、藤根共に越澤明満州国の首都計画』に登場する人物である。武居については、Wikipediaを見られたい。藤根は満鉄理事、満洲国国務院国道局長を経て、関東軍特務部顧問だった時期と思われる*2。「高橋」は、高橋逸夫教授。
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 目次を挙げておく。硬い記事ばかりでなく、映画の話や近況報告もあって読みやすい。会員住所録をみると、さすが京大土木で官公庁が多い。鉄道省2名、内務省1名、関東庁1名、府県庁8名、市役所(東京市含む)14名、会社5名、静養中1名である。何人が戦後まで生き延びることができただろうか。大陸や南方に動員されて、亡くなった人もいるかもしれない。
 余談だが、山路勝彦『台湾の植民地統治:〈無主の野蛮人〉という言説の展開』(日本図書センター、平成16年1月)324頁に越澤著へ言及した後に、興味深い一節がある。

(略)実は、日中戦争のさなか、対戦国の中華民国からも満洲国の都市建築を称賛する声が上がっていた。1943年に出版された『従広州到満洲』を読むと、広州民声日報の一記者が、当時満洲国で開催された「大東亜操觚者大会」*3に出席し、威容を誇る満洲国の都市建築に驚嘆の声を上げていたことが分かる。不思議なことに、こういう内容の歴史文献は日本でも中国でも正当に取り上げられてこなかったのである。

 先月あった平安神宮の古本まつりで、シルヴァン書房から300円で入手したアルバムに大正13年の土木工学科校舎の写真があったので、おまけに挙げておきます。
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*1:大正15年4月助教授、昭和3年7月教授

*2:明治9年大阪生。33年11月京都帝国大学理工科大学土木工学科卒。昭和21年没。

*3:「日本の古本屋」に『大東亜操觚者大会要覧』(康徳9年)と『大東亜操觚者大会誌』(康徳11年)が出ている。

ゴルドン夫人が建てた高野山奥之院の大秦景教流行中国碑のレプリカーー『宗教文芸の言説と環境』(笠間書院)と家蔵の宗教絵葉書からーー

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 シリーズ「日本文学の展望を拓く3」(笠間書院)は、小峯和明監修・原克昭編『宗教文芸の言説と環境』。コラムに奥山直司「物言う石ーーE・A・ゴルドン高野山景教碑レプリカーー」があった。ゴルドン夫人が明治44年高野山に建てた「大秦景教流行中国碑」(景教碑)のレプリカは、原碑にない特徴があるという。それは、碑陰上部に一切偏知印が刻まれ、その下に「玄奘上高昌王麹文泰書」と題された二十五行にわたる文章が刻まれていることだという。前者は、「白蓮華の上の光焰に包まれた三角形で、その中央と頂角上とに右卍字が刻まれている」。
 ゴルドン夫人は、一切偏知印を東西の思想交流を示すものとして重視していた。石碑がキリスト教の十字架と仏教の卍字とを背中合わせに持つことで、夫人が奉じる「仏耶(仏教・キリスト教)一元」の思想を象徴するモニュメントになったとしている。
 この景教碑レプリカの絵葉書を持っている。四天王寺北野天満宮の骨董市で100円で入手。キャプションに「景教碑/NESTORIAN MONUMENT ERECTED By E A GORDE[ママ]N」とある。葉書の表面に右横書きで「郵便はかき」、仕切り線が二分の一なので、大正7年4月から昭和8年2月までの発行となる。高野山が作成したのだろうか。
参考:「宮田昌明『西田天香』(ミネルヴァ書房)に日ユ同祖論 - 神保町系オタオタ日記」及び「昨年翻刻された西田直二郎日記を読むー西田天香、石神徳門、竹林熊彦ら豪華メンバーが登場ーー - 神保町系オタオタ日記
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