神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

「西の田村敬男か、東の赤尾好夫か」と呼ばれた大雅堂の田村敬男と松代大本営への印刷所移転ーー下鴨納涼古本まつりで見つけた『京都綜合製版沿革史』からーー

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 下鴨納涼古本まつりの初日、福田屋書店の1冊200円3冊500円台では、1冊だけ購入。キリスト教関係の良さげな本が幾つか出ていた。しかし、既にリュックが重たくなっているので、『京都綜合製版沿革史』(京都綜合製版協同組合、昭和56年10月)だけを購入したのである。目次を挙げておく。
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 「先覚者・業界人名鑑」が資料として役に立ちそうだ。今回は、「ルーツ座談会Ⅲ 活版と写真製版」から引用してみよう。

松崎 (略)京都の印刷業界も昭和19年の3月に 企業整備が完了したんですがね 京都で625軒の業者が165軒に減りまして 72%の廃業ですわ(略)
司会 終戦後大雅堂の田村さんから聞いたんですが 供出されたものを木曽路を松代までトラックに印刷機械やら活字やら乗せて運んだそうです。大本営が向うへ行くので 和田さんとこの軍隊用の本を松代で作ろうというわけだったのですな。むこうまで着いたら 大本営は来んちゅうことになって 今さら兵書を作って兵隊に読ましてても もう間に合わんということで 京都から持って行った機械が松代かあの辺で 終戦になった事を聞きました。当時東京や大阪は焼けたので 京都の印刷機が長野県へ運ばれたのでした。

 大雅堂の田村は、「関西で公職追放になった二人の出版人 - 神保町系オタオタ日記」などで紹介した田村敬男ですね。大雅堂は、戦時中の企業整備により田村の教育図書を母体に芸艸堂、兵書の武揚社(和田忠次郎)などが統合して設立された。文中の「和田さん」は、和田忠次郎だろう。田村は、戦前日本出版文化協会で「西の田村か、東の赤尾か」と呼ばれていた。赤尾好夫と並び称されるほど大物だった田村が松代に印刷所を移そうとしていたのか。
 調べてみると、事実関係は若干異なるようだ。田村敬男編『或る生きざまの軌跡:人の綴りしわが自叙伝』(田村敬男、昭和55年11月)の飯田助左衛門「わが師父、田村さんとの五十年」には次のようにある。

 いよいよ敗戦の色濃くなった頃、軍部からの命令により、戦時研究員の研究成果を本にまとめることになり、何点かのパンフレット程度の本を出版しました。(略)敗戦の結果を予測し得ず、「一億玉砕」を呼号する軍部の戦争終結の方法を予見することが出来ないため会社を挙げて信州木曽谷の三留野に疎開することになりました。印刷、製本工場など出版に必要な設備も一緒に疎開し、第一陣として私が出発した日の昼頃、名古屋駅付近で、聞き取りにくい、終戦詔勅を聞きました。しかし、敗戦の結果がどのようになるか皆目判らないので、私はそのまま木曽谷の寒村に赴任し、印刷工場の建設に従事しました。(略)

 これによると印刷所などの移転は、長野県の旧読書村三留野(現南木曽町)だったようだ。松代とはかなり離れている。また、田村『荊冠80年』(あすなろ、昭和62年7月)によると、大雅堂で湯川・荒勝先生を中心に『物理学大辞典』を編集していた際に湯川が「敵はおそらく中性子爆弾を完成しているか、或いは完成の域に達しているかも知れない」と語っていた。田村は、新型兵器を作るにも青写真と製作図型製作指導要領を印刷することが必要で、そのため印刷関連工場などを疎開する必要があり、王子製紙中津川工場に近い読書村を選定したという。そして疎開完了した印刷工場を日本出版助成株式会社に売り、戦後大同印刷株式会社になったとしている。湯川(秀樹だろう)のあり得ない発言と言い、戦時中の工場の売却にしろ田村の記憶違いと思われる。大雅堂の取締役・編集部長だった飯田の記述の方が信用できそうだ。
 松代大本営への印刷所の移転は無かったが、田村については注目すべき事績が色々ある。たとえば、次のようなものである。

・滝川事件に際して、政経書院から『京大問題の真相』『京大問題批判』等を刊行
・戦前中井正一邸で服部之総から学友として日出新聞社長の後川晴之助を紹介される
・戦後の公職追放後、日本科学社を創立。『建設工学』(京大工学部棚橋(建築)と石原(土木)両教授を顧問とする土木建築関係の学会雑誌)、『心理:Psukhe』(京大矢田部達郎教授を中心とする心理学雑誌)や『人文地理』(藤岡謙二郎を中心とする人文地理学会機関誌)の発行
・戦後李徳全中国紅卍字会代表団の来日に際し、京都における歓迎実行委員会の事務局次長

 田村は、明治37年11月長野県東筑摩郡里山辺村生、昭和61年12月没。オーラルヒストリーを記録して欲しかった人物である。