「興亜民族生活科学研究所の創立者戸田正三と石田英一郎ーー本田靖春『評伝今西錦司』の誤りーー - 神保町系オタオタ日記」で紹介した興亜民族生活科学研究所の所長となる戸田正三や所員になる今西錦司、三木茂が出てくる日記がある。京都帝国大学理学部植物学教室の嘱託だった植物学者田代善太郎の日記*1である。ただ、内容は大したものではない。
まず、戸田を見てみよう。
(昭和8年10月)
9.月. 戸田(正三)氏に不幸あり弔問す。(略)
(昭和13年2月)
13.日. 朝、戸田(正三)氏をたづねて大分県教育会の夏期講習のための講師の世話を依頼す。(略)
( )内は、編者による注
昭和8年10月9日の条には編者による脚注もあって、戸田について「夫人をうしなった不幸。氏の宅は田代宅の向い側で庭の垣向うは農学部運動場」とある。田代は、北白川平井町に住んでいた。
今西や三木は、
(昭和4年3月)
11.月.雪ふる。 三木(茂)氏に上高地植物調査報告を貸す。(略)
(昭和8年11月)
1.水. (略)三木(茂)氏、今村(駿一郎)氏に植物目録抜刷を呈す。今西錦司氏来訪。(略)
(昭和9年3月)
6.火. (略)今西(錦司)氏、不審の植物をたづねに来る。
(略)
(昭和13年11月)
4.金. (略)夜、島津の講堂にて三木(茂)氏の講演を聞き、また蒙古行の報告を聞く。
上記以外にも登場するが、主なものに留めた。驚くような記述は無いが、戦前の戸田や今西らが出てくる日記にはまずお目にかかれないだろう。理学部関係では、北白川(みんな住んでる北白川)に旧邸があり私も見学したことがある駒井卓も出てくる。
(昭和6年5月)
8.金. (略)駒井氏(卓、動物学)南京行をなしたる由にて、報告書類をもらひ受け之を小泉氏に渡す。(略)
(昭和8年5月)
9.火. (略)黒田(徳米)氏をたづねて貝類調査につき打合す、夜、駒井(卓)氏をたづねて動物調査につきて打合す。
文学部の西田直二郎も出てくる。場所の記載は無いが、楽友会館だろうか。
最後は、最近お馴染みの南洋ネタで締めよう。
(昭和9年10月)
7.日. 朝、教室にいで地質の松山(基範)教授のもちかへれる南洋土産の展覧会を見る。
坂野徹『〈島〉の科学者:パラオ熱帯生物研究所と帝国日本の南洋研究』によれば、松山はこの年日本学術振興会の共同研究によりミクロネシアで重力測定を実施していた。