神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

昭和8年スチーム暖房に惹かれて北白川に引っ越した京都帝国大学植物学教室の北村四郎ーー下鴨納涼古本まつりで竹岡書店から見つけた年譜からーー

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 下鴨納涼古本まつりが無事開催された。雨で2日間中止というハプニングもあり、主催者・参加店は大変だったと思う。お疲れ様でした。恒例の竹岡書店の3冊500円台は、従来の1冊売り不可から3冊まで500円(1冊でも2冊でも500円)になり、3冊揃わないと家に帰れないという無間地獄は回避された(^_^;)
 更に、竹岡書店の均一台は、会期最後の2日間5冊まで500円になっていた。最終日、さすがに5冊揃えるのは時間がかかり、2冊で止めとこうかと思ったりした。それでも諦めずに、5冊揃えることができた。
 1冊目に見つけたのが、北村四郎『年譜』(昭和57年4月)、非売品、48頁である*1。北村は、京都帝国大学京都大学理学部で植物学科教授だった人物である。このところ京大理学部ネタを書いているのと、年譜の昭和8年の欄に「北白川西町に洛東アパートが新築され、暖房がスチームなので、ガスストーブの京都アパートから引越した」とあるのが面白く買ってみた。北村も北白川に住んでいたことになる。しかも、引っ越した理由が暖房がスチームだからというのが注目である。北村の略歴はWikipediaに出ているので、そこに出てない面白い記述を『年譜』から要約して引用しておこう。

大正14年 静岡高等学校で、国文学講義を東条操教授から聞き、日本文化に関心を持つ。
昭和3年4月 京都帝国大学理学部植物学科に入学。相国寺普広院に下宿。京都では、室を貸すだけで食事は別に食堂でとるのが普通であった。そのため、病気になった時は困った。
入学後さっそく小泉源一助教授に、植物分類学専攻を願い出た。嘱託田代善太郎に紹介される。時々図書室に入り、カーチス・ボタニカルマガジンを見るとぞくぞく楽しく、便秘の時はこの本を見ると正常になった。
昭和6年 京都帝国大学理学部卒業。普広院を出て百万遍の京都アパートに移る。
昭和7年1-4月上旬 台湾に植物採集。台北大学を訪問。工藤祐舜教授が死去した直後であった。助手正宗厳敬の室に机を借りる。3月中旬館脇操とタロコで共同採集 
昭和9年1-3月 垂水で療養しながらキク科を研究
同年4月 京都洛東アパートに移る。近くの室のシナリオライター内田徳司と西洋音楽のレコードから友人となる。のち氏の喫茶店「若者」へよく行く。また、レコード店で喫茶店でもある「アルファー」へよく行く。
昭和20年8月15日 理学部植物園の圃場内で終戦を知り、植物学教室事務室で終戦詔勅放送を聞く。

 本人しか書けない面白い記述が多い。死後第三者が年譜を纏めてもこうはいかない。この貴重な『年譜』、国会図書館や京大の図書館にはなく、余所の大学が持っていたりする。先生方は、私家版を発行したら知人に配る前にまず自校の図書館に必要かどうか確認した上、寄贈しましょう。
 北村は学生時代に植物学教室嘱託田代と知り合い、以後親しくしている。田代の日記*2で確認しておこう。

(昭和4年1月)
10. 木. (略)
 晃二をして、北村四郎氏よりもらひたるかもやミカンを福島(繁三)氏に贈らしむ。
(昭和14年12月)
18. 月. 三木(茂)北村(四郎)芦田(譲治)の3博士を祝するため「東洋花壇」(吉田山東中腹にあった料亭)にて同人会を開く。
(略)
( )内は、編者による注

追記:『北村四郎選集』5巻(保育社、平成5年7月)は、「年譜とその追加」として『年譜』(明治39年~昭和56年)と平成5年までの追加を掲載している。
参考:「北白川と京大の切っても切れない深い関係ーー『学校で地域を紡ぐ:『北白川こども風土記』から』と『北白川教会五十年史』からーー - 神保町系オタオタ日記」、「京都帝国大学の学知ーー『田代善太郎日記』で見る京大山脈(戸田正三、今西錦司、三木茂、駒井卓ら)ーー - 神保町系オタオタ日記
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*1:私家版と思われる。印刷者は昭和57年5月から『北村四郎選集』を刊行する保育社

*2:田代晃二編『田代善太郎日記昭和篇』(創元社、昭和48年10月)