神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

北白川と京大の切っても切れない深い関係ーー『学校で地域を紡ぐ:『北白川こども風土記』から』と『北白川教会五十年史』からーー

f:id:jyunku:20210629174206j:plain
 私は学生時代は左京区吉田に住んでいて、北白川に住んだことはない。しかし、友人や先輩の多くは、北白川に住んでいた。また、いつの時期の話か忘れたが、京大の先生の多くが北白川に住んだと書かれた本を読んだ覚えがある。ということで、今回は北白川と京大を巡るお話を2冊の本で見てみよう。
 昭和17年柴田宵曲にある本が贈られた。柴田の日記*1によると、

(昭和十七年)
七月九日 (略)画廊*2に至れば川田君先程来り川村君よりの「こども風土記」を届けられしよし。八時過西宮に帰る。

 この「こども風土記」は、この年の2月に刊行された柳田國男『こども風土記』(朝日新聞社)だろう。文面からは必ずしも柴田に贈られたとは限らないが、とりあえず贈られたことにしておく。「柳田國男に群がる図書館人(その2) - 神保町系オタオタ日記」で言及したが、柴田と柳田には面識があった。しかし、本を贈られるほど親しかったのか、更に贈るにしても普段東京に住んでいる柴田に対し、なぜ大阪で、「川村君」と「川田君」経由で贈るのかという疑問がある。このため、同書は柴田に贈られたものではないのかもしれない。
 それはともかく、この柳田の『こども風土記』が嚆矢となって、その後現在に至るまで数多くの〈こども風土記〉が生み出された。これについては、菊地暁・佐藤守弘編『学校で地域を紡ぐーー『北白川こども風土記』からーー』(小さ子社、令和2年6月)に詳しいところである。同書が取り上げた京都市立北白川小学校編『北白川こども風土記』(山口書店、昭和34年7月)は、北白川小学校の児童が課外学習で北白川を調べた記録である。梅棹忠夫が「これはおどろくべき本である」と絶賛した程のレベルの高い本であったという。教師の指導や地域の古老等の協力に負う所が大きいのだろうが、北白川という地域の特殊性もあった。児童の中には京大の先生である小林行雄や藤岡謙二郎の子弟がいたし、北白川にある京大人文研の羽館易や文学部陳列館を訪問したりしているのである。
 京大の先生のどの程度が北白川に住んでいたであろうか。昭和29年度版の『大学職員録』で文学部の専任の教授・助教授のうち住所の確認ができた41人中6人が北白川在住であった。思っていたほどは、多くはない。吉田や下鴨等の左京区に広げると、さすが24人と半数を超える。時期によって変遷があるだろうから、戦前から時系列的に調べたら面白そうだ。
 もう一冊は、大津市比叡平に移転する前の書砦・梁山泊京都店で買った『北白川教会五十年史』(日本基督教団北白川教会、昭和61年4月)である。ここにも、北白川と京大の関係が出てきた。

 京都共助会は、当初、京都帝国大学学生基督教共助会と呼ばれていた。一九三〇年の礼拝共同体においても、一九三五年の伝道教会においても、そのほとんどのメンバーが、京都大学卒業生、学生、また、その夫人たちであった。北白川教会の会員に、京大卒業生や京大生が多いのは、以上のような北白川教会と京大共助会とのつながりによる。キリスト教主義大学の場合はともかく、一つの教会が、半世紀以上にわたって、一つの国立大学とのかかわりにおいて歩んできた歴史は、他に例を見ないのではないか。それは北白川教会の貴重な伝統であり個性であると共に、北白川教会が絶えず信仰において、闘い克服しなければならない危険と課題をもはらんでいる。

 京都共助会は、大正13年6月京都帝国大学法学部法律学科の学生であった奥田成孝の下宿で誕生した。これが後の昭和10年4月の北白川日本伝道教会の設立に繋がることになる。北白川と京大の深い関係は、様々な観点から捉えることができるのである。
f:id:jyunku:20210227132007j:plain 

*1:日本古書通信』昭和59年5月号の「柴田宵曲翁日録抄(33)」

*2:同日記昭和17年7月5日の条に大阪の美術新論画廊とある。