神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

『東壁』(関西文庫協会)の編集委員川村猪蔵は、日出新聞記者だった

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 『図案会誌』2巻1号(京都図案会雑誌部、明治40年4月)の編集人に川村猪蔵という人がいた。このことは、「明治期の京都における染織図案史の修正を迫る『京都図案会誌』を発見 - 神保町系オタオタ日記」の注で言及したことがある。今回、その川村の経歴が判明した。文芽(あやめ)という筆名で日出新聞(京都新聞の前身)の記者だった。
 島田康寛 『京都の日本画:近代の揺籃』(京都新聞社、平成3年7月)に出てきたのである。この本は、村上文芽が『日出新聞』大正8年7月1日から11月27日まで連載した「絵画振興史」に島田氏が解説を加えたものである。同書の「あとがきに代えて」に、村上文芽の本名を猪蔵とし、経歴を紹介している。
 川村の経歴を要約しておこう。

村上文芽(川村猪蔵)
慶応3年5月5日 呉服商の川村巳之助、あいの長男として京都五条に生まれる。次弟万蔵は、日本画家の川村曼舟
明治27年12月頃 中央大学で学んだ後、日出新聞に入社。同じ頃黒田天外*1も入社。編集局には、主筆の雨森蝶夢、中川霞城、金子靜枝*2、堀江松華、宮野義太郎がいた。 
明治35年 村上イトと結婚して、村上姓となる。
明治37年 『京都名所地誌』(中村弥左衛門)刊行
明治39年 西陣織物同業組合の委嘱で中国、朝鮮に渡り織物の組織と図案を調査
明治40年5月 京都における洋画家の集まり「二十日会」の例会に出席
明治41年5月頃 東京の有楽社に短期間勤務
大正13年 新聞記者30周年記念に京都の画家達に絵を書いてもらい、美術倶楽部で展覧会を開く。その後間もなく退社
大正15年 『蝶夢居士』(蝶夢居士伝記編纂事務所)刊行
昭和2年 『近代友禅史』(芸艸堂)刊行
昭和5年4月14日 没

 「京都図案会幹事、日本図案会評議員だったという記録もある」ともあるので、同定できる。拙ブログで何回か紹介した金子や黒田と同僚だったのである。更に川村は図書館史にも関わる人物であったらしい。『図書館の学と歴史:京都図書館協会十周年記念論集』(京都図書館協会、昭和33年7月)の竹林熊彦「関西文庫協会ーーその歴史的意義」によると、関西文庫協会の機関誌『東壁』(明治34年4月創刊)の編集委員は前川亀次郎(三高)、富岡謙三(同志社女学校)、金太仁策(染織学校)、笹岡民次郎(京大図書館)、三宅五郎三郎(前京都府立図書館長、簡易商業学校長)で、後に湯浅吉郞、川村猪蔵が加わったという。『東壁』は4号、明治35年3月まで発行されたので、川村は明治34年か35年に関与していたことになる。
 ただ、他の編集委員の肩書きと比較すると新聞記者が関与するのはやや異質なので、別途同定する資料が必要ではある。後年ではあるが、明治37年6月3日に開催された京都図案会の例会で湯浅京都府立図書館長が行った講演「写生と心の力」の概要が家蔵の『京都図案会誌』(京都図案会事務所、明治37年7月)に掲載されている。同一人物の可能性は高そうだ。