神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

占領下の雑誌『月刊中国』(中国新聞社)に寄稿した宮本常一と竹中郁

 「大東亜学術協会の機関誌『学海』ーー敗戦を巧みに生き延びた戦時下の雑誌ーー - 神保町系オタオタ日記」で紹介した『学海』2巻7号(秋田屋仮事務所、昭和20年8月)には、「次号予定」が出ている。
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 宮本常一の名前がある。ネットで読める菊地暁先生の「人文研探検―新京都学派の履歴書(プロフィール)―| 菊地 暁(KIKUCHI Akira)」によると、宮本はこれ以降『学海』を改題した『学藝』昭和23年9月号まで6回執筆している。今回宮本の戦後の日記*1を見ると、宮本は別の雑誌にもしばしば寄稿していたことが分かった。
 中国新聞社が発行した『月刊中国』という雑誌である。「国会図書館サーチ」の書誌情報によると、昭和21年5月創刊で24年3月号から『読物中国』に改題している。21年8月の「原子爆弾記念号」は著名のようだ。宮本の日記によると、昭和21年に同誌のために「物売り」(6月3日)、「出買船」(6月12日から7月7日までの予備欄)、「遊女のはなし」(9月8日)を執筆している。その外、7月10日の条には「瀬戸内海の文化」はずっと連載されるとの記述もある。気になる雑誌である。
 更に竹中郁の年譜*2昭和24年1月の条に「エッセイ「ジャン・コクトオの横顔」を「月刊中国」(中国新聞社)に発表」とあるのも見つけた。ますます実物を見てみたい雑誌であるが、あまり残っていないようだ。『月刊中国』は広島県立図書館がある程度所蔵。『読物中国』は広島市立中央図書館が昭和24年3月号から同年10月号(プランゲ文庫のマイクロ)、国会図書館が同年7月号から25年2月号まで所蔵。「日本の古本屋」には『月刊中国』が2冊出品されたが、売り切れている。「ざっさくプラス」経由で「20世紀情報データベース」を見ると24年の『読物中国』の185件がヒット。全体的に面白そうな記事は少ないが、保田勝馬「妖怪ばなし」など幾つか気になるタイトルがある。地方とは言え新聞社の出していた雑誌でも中々残っていないものですね。

 

*1:宮本常一写真・日記集成別巻』(毎日新聞社、平成17年3月)

*2:竹中郁全詩集』(角川書店、昭和58年3月)

『東壁』(関西文庫協会)の編集委員川村猪蔵は、日出新聞記者だった

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 『図案会誌』2巻1号(京都図案会雑誌部、明治40年4月)の編集人に川村猪蔵という人がいた。このことは、「明治期の京都における染織図案史の修正を迫る『京都図案会誌』を発見 - 神保町系オタオタ日記」の注で言及したことがある。今回、その川村の経歴が判明した。文芽(あやめ)という筆名で日出新聞(京都新聞の前身)の記者だった。
 島田康寛 『京都の日本画:近代の揺籃』(京都新聞社、平成3年7月)に出てきたのである。この本は、村上文芽が『日出新聞』大正8年7月1日から11月27日まで連載した「絵画振興史」に島田氏が解説を加えたものである。同書の「あとがきに代えて」に、村上文芽の本名を猪蔵とし、経歴を紹介している。
 川村の経歴を要約しておこう。

村上文芽(川村猪蔵)
慶応3年5月5日 呉服商の川村巳之助、あいの長男として京都五条に生まれる。次弟万蔵は、日本画家の川村曼舟
明治27年12月頃 中央大学で学んだ後、日出新聞に入社。同じ頃黒田天外*1も入社。編集局には、主筆の雨森蝶夢、中川霞城、金子靜枝*2、堀江松華、宮野義太郎がいた。 
明治35年 村上イトと結婚して、村上姓となる。
明治37年 『京都名所地誌』(中村弥左衛門)刊行
明治39年 西陣織物同業組合の委嘱で中国、朝鮮に渡り織物の組織と図案を調査
明治40年5月 京都における洋画家の集まり「二十日会」の例会に出席
明治41年5月頃 東京の有楽社に短期間勤務
大正13年 新聞記者30周年記念に京都の画家達に絵を書いてもらい、美術倶楽部で展覧会を開く。その後間もなく退社
大正15年 『蝶夢居士』(蝶夢居士伝記編纂事務所)刊行
昭和2年 『近代友禅史』(芸艸堂)刊行
昭和5年4月14日 没

 「京都図案会幹事、日本図案会評議員だったという記録もある」ともあるので、同定できる。拙ブログで何回か紹介した金子や黒田と同僚だったのである。更に川村は図書館史にも関わる人物であったらしい。『図書館の学と歴史:京都図書館協会十周年記念論集』(京都図書館協会、昭和33年7月)の竹林熊彦「関西文庫協会ーーその歴史的意義」によると、関西文庫協会の機関誌『東壁』(明治34年4月創刊)の編集委員は前川亀次郎(三高)、富岡謙三(同志社女学校)、金太仁策(染織学校)、笹岡民次郎(京大図書館)、三宅五郎三郎(前京都府立図書館長、簡易商業学校長)で、後に湯浅吉郞、川村猪蔵が加わったという。『東壁』は4号、明治35年3月まで発行されたので、川村は明治34年か35年に関与していたことになる。
 ただ、他の編集委員の肩書きと比較すると新聞記者が関与するのはやや異質なので、別途同定する資料が必要ではある。後年ではあるが、明治37年6月3日に開催された京都図案会の例会で湯浅京都府立図書館長が行った講演「写生と心の力」の概要が家蔵の『京都図案会誌』(京都図案会事務所、明治37年7月)に掲載されている。同一人物の可能性は高そうだ。

昭和8年度京都帝国大学工学部土木工学科卒業生の同窓会誌『恒友会誌』ーー帝国日本の土木技術者たちーー

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 昨年の秋無事に開催された知恩寺秋の古本まつりで「indigo book」の均一台から見つけた『恒友会誌』創刊号(恒友会、昭和9年9月)。62頁、非売品。恒友会は、会則を見ると昭和8年京都帝国大学工学部土木工学科卒業生及び之に準じる者で構成される。会の命名は、瀧山興教授であった。
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 土木工学科でなく建築学科だったら面白そうだが、それでも買ってみた。「土木教室近況」に、
・5月31日楽友会館で土木会春季例会があり、武居教授の講演「満洲国の都市計画について」があった
・5月31日夜から6月1日早朝にかけて大阪駅高架切替工事の見学に土木の学生60人位が参加した
・工学部特別講演として、土木教室第1回卒業生で元満洲国鉄道局長藤根壽吉の講演「満洲の土木事業について」があった
・夏休みには高橋・武居両教授は満洲方面の視察に行く予定
とあって、満洲国ネタなどがあったからである。「武居」は日本初の都市計画担当教授である武居高四郎*1。武居、藤根共に越澤明満州国の首都計画』に登場する人物である。武居については、Wikipediaを見られたい。藤根は満鉄理事、満洲国国務院国道局長を経て、関東軍特務部顧問だった時期と思われる*2。「高橋」は、高橋逸夫教授。
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 目次を挙げておく。硬い記事ばかりでなく、映画の話や近況報告もあって読みやすい。会員住所録をみると、さすが京大土木で官公庁が多い。鉄道省2名、内務省1名、関東庁1名、府県庁8名、市役所(東京市含む)14名、会社5名、静養中1名である。何人が戦後まで生き延びることができただろうか。大陸や南方に動員されて、亡くなった人もいるかもしれない。
 余談だが、山路勝彦『台湾の植民地統治:〈無主の野蛮人〉という言説の展開』(日本図書センター、平成16年1月)324頁に越澤著へ言及した後に、興味深い一節がある。

(略)実は、日中戦争のさなか、対戦国の中華民国からも満洲国の都市建築を称賛する声が上がっていた。1943年に出版された『従広州到満洲』を読むと、広州民声日報の一記者が、当時満洲国で開催された「大東亜操觚者大会」*3に出席し、威容を誇る満洲国の都市建築に驚嘆の声を上げていたことが分かる。不思議なことに、こういう内容の歴史文献は日本でも中国でも正当に取り上げられてこなかったのである。

 先月あった平安神宮の古本まつりで、シルヴァン書房から300円で入手したアルバムに大正13年の土木工学科校舎の写真があったので、おまけに挙げておきます。
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*1:大正15年4月助教授、昭和3年7月教授

*2:明治9年大阪生。33年11月京都帝国大学理工科大学土木工学科卒。昭和21年没。

*3:「日本の古本屋」に『大東亜操觚者大会要覧』(康徳9年)と『大東亜操觚者大会誌』(康徳11年)が出ている。

ゴルドン夫人が建てた高野山奥之院の大秦景教流行中国碑のレプリカーー『宗教文芸の言説と環境』(笠間書院)と家蔵の宗教絵葉書からーー

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 シリーズ「日本文学の展望を拓く3」(笠間書院)は、小峯和明監修・原克昭編『宗教文芸の言説と環境』。コラムに奥山直司「物言う石ーーE・A・ゴルドン高野山景教碑レプリカーー」があった。ゴルドン夫人が明治44年高野山に建てた「大秦景教流行中国碑」(景教碑)のレプリカは、原碑にない特徴があるという。それは、碑陰上部に一切偏知印が刻まれ、その下に「玄奘上高昌王麹文泰書」と題された二十五行にわたる文章が刻まれていることだという。前者は、「白蓮華の上の光焰に包まれた三角形で、その中央と頂角上とに右卍字が刻まれている」。
 ゴルドン夫人は、一切偏知印を東西の思想交流を示すものとして重視していた。石碑がキリスト教の十字架と仏教の卍字とを背中合わせに持つことで、夫人が奉じる「仏耶(仏教・キリスト教)一元」の思想を象徴するモニュメントになったとしている。
 この景教碑レプリカの絵葉書を持っている。四天王寺北野天満宮の骨董市で100円で入手。キャプションに「景教碑/NESTORIAN MONUMENT ERECTED By E A GORDE[ママ]N」とある。葉書の表面に右横書きで「郵便はかき」、仕切り線が二分の一なので、大正7年4月から昭和8年2月までの発行となる。高野山が作成したのだろうか。
参考:「宮田昌明『西田天香』(ミネルヴァ書房)に日ユ同祖論 - 神保町系オタオタ日記」及び「昨年翻刻された西田直二郎日記を読むー西田天香、石神徳門、竹林熊彦ら豪華メンバーが登場ーー - 神保町系オタオタ日記
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昭和13年京都帝国大学総長濱田耕作の追悼会で太田喜二郎のスケッチ画を観ていた大場磐雄ーー植田彩芳子「太田喜二郎研究:その画業と生涯」への補足ーー

 「古本が古本を呼ぶ」(by 高橋輝次)と言われるが、「展覧会が展覧会が呼ぶ」こともある。平成28年7月から9月まで京都文化博物館で「アートと考古学 物の声、土の声を聴け」展が開催された。ここで展示された考古学者濱田耕作による昭和8年石舞台古墳調査に同行した太田喜二郎が描いた絵巻物《石舞台古墳発掘見学絵巻》の中に、調査風景を描いている場面がある。そこに出てくるパステルのスケッチ箱が太田邸に残されていることが分かり、更に太田邸の設計者が藤井厚二だったことから、「太田喜二郎と藤井厚二ーー日本の光を追い求めた画家と建築家」展が平成31年(令和元年)に京都文化博物館目黒区美術館で開催された。また、京都文化博物館ではそれに先駆けて、平成29年に「京都の画家と考古学者ーー太田喜二郎と濱田耕作ーー」展も開催されたところである*1。『アートと考古学展』(京都文化博物館平成28年7月)から当該場面を挙げておく。「梅原先生」は梅原末治、「末永先生」は末永雅雄である。
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 植田彩芳子「太田喜二郎研究ーーその画業と生涯」並木誠士編『近代京都の美術工芸:制作・流通・鑑賞』(思文閣出版平成31年3月)によると、太田と濱田が属した京都帝国大学を結びつけたのは、太田と京都府第一中学校の同窓である羽田亨であった*2。太田は、京都帝国大学第三高等学校の職員学生による美術サークル「三脚会」に参加することとなり、ここで濱田は太田から絵を学ぶことになる。
 濱田は自身の考古学に関する著作にしばしば太田の画を用いた。また、考古学調査や旅行に太田を誘い、太田はその記録をパステルに描いたり、旅行記を漫画絵巻にした。絵巻には、濱田が詞書を書くなどしたという。
 この太田によるスケッチが「大場磐雄『楽石雑筆』に「信仰と迷信に関する通俗科学展覧会」ーー國學院大學博物館で「楽石雑筆展」開催中ーー - 神保町系オタオタ日記」などで紹介した大場磐雄の日誌『楽石雑筆』*3に出てくるのを発見した。

(昭和十三年)
◎九月二十四日(土)(略)京都帝大へゆく。浜田先生の追悼会準備の為教室員一同集まり居らる。既に先生の著書並に遺墨はほゞ陳列しありたり。一覧す。先生幼年時のスケッチブックなどいと珍らし。軍艦の図、汽車の図なか/\に巧なり。それより晩年に至る迄のノートブック多数あり。或は遺跡のスケッチあり。遺物の見取図あり。それよりも量多くして興味深きは各地の風俗と風景、又は諸所の人物画なりとす。遺墨に於いて珍らしきは毛筆にて書かれし国定教科書の古代の遺物の一文にして、洋罫紙に筆にて書かれたり。初稿は相当に内容を異にせるが如し。これが先生の絶筆にして先生の我が考古学上の貢献も亦これに尽くるというも可ならん。次に多数の書、画あれど先生と太田画画伯その他とが各地を旅行せられし折のスケッチ(画伯の画に先生の文)最もおもしろく、その面目躍如たるものあり。
(略)
◎九月二十五日(略)百万遍にゆきて式場の準備を手伝う。(略)食後一堂に会して座談会となる。先ず西田教授の追憶談は先生の初任当時児島高徳の墓を調査せし頃のことを物語られ(略)次で太田画伯の談話。これは藤平画帖の話を中心としてせらる。(略)

 濱田は、この年の7月25日に京都帝国大学総長に在職のまま亡くなっている。亡くなる前の状況は、「清野謙次教授による窃盗事件の報に接した浜田耕作京都帝大総長の心情 - 神保町系オタオタ日記」参照。大場が観た太田のスケッチが何だったのかは不明。ただ、《石舞台古墳発掘見学絵巻》の詞書は太田自身によるものなので、それ以外のものということになる。
参考:藤井厚二については、「聴竹居の建築家藤井厚二の原点ーー東京帝国大学を卒業直後に新式日本倉庫を提案ーー - 神保町系オタオタ日記

*1:降旗千賀子「展覧会から展覧会へーー画家と建築家の企画展はこのように立ち上がった」『太田喜二郎と藤井厚二:日本を追い求めた画家と建築家』(青幻舎、令和元年5月)

*2:大正6年5月に京都商業会議所で開催された「太田喜二郎作品展覧会」の発起人に内藤湖南や深田康算の名があるのも、京都帝国大学文学部助教授だった羽田の引き合わせだったという。

*3:『大場磐雄著作集』8巻(雄山閣出版、昭和52年1月)

大東亜学術協会の機関誌『学海』ーー敗戦を巧みに生き延びた戦時下の雑誌ーー

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 『学海』2巻7号(秋田屋仮事務所、昭和20年8月10日)は、2年前知恩寺の古本まつりでヨドニカ文庫から300円で購入。和本の均一箱に入っていたような気がする。目次を挙げておく。
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 「青山光二が描いた京都学派の奇人土井虎賀壽と『鹿野治助日記』 - 神保町系オタオタ日記」で言及した土井虎賀寿が書いていることや敗戦直前の発行なので買ってみた。ところが、巻頭の松村克己「「まつり」と「まこと」」に、「昭和廿年八月十五日正午、ラヂオを通して国民は 畏くも 玉音によつて御詔勅を拝したのである」とあり、末尾には「(二〇、八、二七)」とあって、実際は敗戦後の発行であった。慌てて記事を差し替えたのだろう。内務省への納本分の奥付はどうなっているだろうか。また、「後記」には、「本誌の編輯企画に対しいろいろ御骨折を頂いてをります大東亜学術協会は、今東方学術協会と改名されました」とある。
 大東亜学術協会の機関誌『学海』については、幾つかの文献が言及している。高崎隆治『戦時下の雑誌:その光と影』(風媒社、昭和51年12月)では、2巻2号、昭和20年2月の湯川秀樹の科学随想「飛行機雲」と座談会「芭蕉研究」における湯川の発言に注目している。大東亜学術協会については、まったく言及していない。
 これに対して、菊地暁「民族学者・水野清一ーーあるいは、「新しい歴史学」としての民俗学と考古学」坂野徹編著『帝国を調べる:植民地フィールドワークの科学史』(勁草書房平成28年2月)は、言及してくれている。菊地先生によると、大東亜学術協会は昭和17年大東亜共栄圏の風土、民族。文化を学術的に調査研究し、以て大東亜新文化建設に寄与」することを目的に設立されたという。東方文化研究所を中心に京都の人文学者を総動員したような団体だった。同論文によると、誌名の変遷は次のとおりである。
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 菊地論文を受けて更に詳細な研究が発表されている。ネットで読める久保田裕次「大東亜学術協会の設立と活動」『京都大学大学文書館研究紀要』17号、平成31年3月である。詳細は、それを見られたい。団体も機関誌も敗戦後逞しく(?)生き延びて、『学海』は『学藝』と改称して昭和23年9・10月号まで発行された。しかし、たとえば前記の松村は京都帝国大学文学部助教授(宗教学)だったが、教職追放となっている。

竹久夢二や妖怪を愛した廣瀬南雄の『民間信仰の話』(法蔵館)ーー大阪古書会館で出口神暁の鬼洞文庫旧蔵書を発見ーー

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 今月も暢気に(?)大阪古書会館の「たにまち月いち古書即売会」へ。一番乗りした古本横丁では相変わらず争奪戦になったのと、店主の体調を反映してか品揃えがもう一つだったため、1冊も買わず終了。しかし、古書あじあ號や他の店で幾つか買えた。その中に関西大学図書館の鬼洞文庫(「鬼洞文庫 - 関西大学図書館」)で知られる出口神暁の旧蔵書があった。出口は、「大阪の郷土資料収集において第一人者を以て任じた」という。
 入手した本は、廣瀬南雄述・長崎法剣編『民間信仰の話』(法蔵館、大正15年11月初版・昭和2年2月再版)である。押された蔵書印は、蔵書印さん(@NIJL_collectors)のお手を煩わさずに読めた。国文研所蔵の「蔵書印DB鬼洞文庫」と同じ印である。
 国会図書館デジコレでネット公開されているので、目次の一部だけ挙げておこう。
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 「妖異観念に伴ふ民間信仰」が面白そうなので購入。廣瀬の経歴は、『月愛集:故廣瀬南雄教授詩歌集』(大谷大学短歌会・大谷大学詩話会、大正15年6月)によると次のとおりである。

明治20年12月 近江国浄久寺で誕生
明治44年7月 真宗大学卒業
大正2年9月 真宗大谷大学研究科入学「元祖吾祖及び蓮師に亘れる教義の研究」に従事
大正5年7月 卒業擬講の称号を受ける
大正8年 真宗大谷大学教授
大正12年4月 大谷大学教授
大正15年2月 大僧都に補せられる
同月9日 逝去

 入手した本は、廣瀬の死後の刊行ということになる。「はしがき」によれば、大正14年10月大谷派本願寺伝道講究院での講義「民間信仰の話」の速記を『真宗』に連載(大正15年1月~7月)。編者が廣瀬の生前のノートを整理して、速記の不完全な点を補い、上梓したという。
 前記『月愛集』に大正3年の「私は愛する」という驚くべき詩が載っていた。真に注目すべき人だ。大谷大学博物館で「廣瀬南雄展」を開催してほしいものである。

私は愛する
神話伝説を愛する。古き言葉を愛する。
(略)
観音、地蔵の民間信仰を愛する。
(略)
夢二の絵、太田三郎の絵を愛する。魔幻的な絵を愛する。妖怪を愛する。
タゴールの詩を愛する。エピクタテスを愛する。懐疑派の哲学を愛する。
(略)
ーー三、五、二九ーー