SF詩人にして、日ユ同祖論者だった中山啓(中山忠直)の周辺には、澤田健や小谷部全一郎、三村三郎など、竹内文献がらみの人がいることはわかっていた。
しかし、思っていたより早い時期から同文献に接触していたことが判明。
大内義郷『神代秘史資料集成解題(附録)』(八幡書店、昭和59年5月)によると、
鳥谷が如何なる動機から竹内文献に関心を抱くようになったのかは、判然としないが、酒井勝軍の研究メモに「昭和四年三月十日初めて竹内家の神宝拝観、高畠康次郎、長谷川栄作、中山忠也、中山忠直、鳥谷幡山」とあることからもわかるように、わりと早い時期に竹内文献に出会っている。
戦前のトンデモない方々は、たいてい大本教か竹内文献を擁する天津教に関係しているが、中山もやはり例外ではなかったのだ。
(参考)澤田健こと澤田一は、第三次天津教事件で起訴猶予(昭和12年6月28日)となった鍼灸術師。当時61歳。昭和10年8月、青森県でいわゆる「キリストの墓」を天津教教祖竹内巨麿、鳥谷幡山らと共に発見。昭和13年4月26日没。
澤田の『三種之神宝の略説と謹解』(曲肱堂、昭和9年7月)には、「竹内家の古文書」とか、「アヂチクニ」、「ヒヒイロカネ」、「近来マヤ国や、ミユウ国の三万年、五万年の亡国文明史が発見せられました」などと記されている(中山と澤田については、5月22日参照)。