昨年12月16日京都新聞に11月17日京都芸術センターで開催されたレコード鑑賞会に関する記事(樺山聡記者)が載った。→「京都で響いた100年前のパリ希少レコード蓄音機で鑑賞“狂騒の時代”熱気に聴衆酔う|THE KYOTO|京都新聞」
百万遍にある喫茶店進々堂の創業者続木斉が100年前フランスに渡り入手して持ち帰ったレコードが遺品から発見され、その鑑賞会であった。孫の創社長による祖父の話もあったようだ。私は、続木斉と妻の続木ハナについて「新井奥邃の英文書刊行に協力した元第三高等学校教授栗原基と進々堂の女主人続木ハナ - 神保町系オタオタ日記」で言及しているが、レコードにはあまり関心がないので、参加はしなかった。
一昨年(令和5年)百万遍知恩寺の古本まつりで竹岡書店の均一台で見つけた著者自身旧蔵の福田與『草の花:歌集』(初音書房、昭和37年7月)を改めてみると、続木斉と続木ハナの没日が出ていた。前者は手書きで「S九、六、一九」と追加され 、後者は印字に上書きで「三〇、二、四」と訂正されている。『進々堂百年史:パン造りを通して神と人とに奉仕する』(進々堂、平成25年6月)の年表には前者は昭和9年6月死去、後者は昭和30年2月死去とあるので、おそらく合っているのだろう。
福田は昭和6年頃から小林信子の静坐社(昭和2年創立)に参加していた(「戦前も小林信子の静坐社に通っていた福田與 - 神保町系オタオタ日記」参照)。一方、白隠禅師の『夜船閑話』や『遠羅天釜』を読んでいたというハナも進々堂と同じく京大近くにあった静坐社と関わりがあったかもしれない。これは全くの妄想ではなく、斉が大正2年京都で進々堂を創業する前は新宿中村屋で働いており、中村屋の創業者相馬愛蔵は妻の相馬黒光と共に熱心な岡田式静坐法の信奉者だった。その岡田式静坐法の普及を京都で図っていたのが、静坐社である。このあたりは、日文研図書館が所蔵する静坐社の機関誌『静坐』で確認したいところである。