神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

オックスフォード大学時代の田中秀央、黒田チカと加藤文雄:平安蚤の市で田中秀央のアルバム発見


 昨年は、大正2(1913)年8月黒田チカら3人の女性が日本で初めて大学(東北帝国大学理科大学)に入学して110周年であった。冒頭の写真は、その黒田が同大学卒業後オックスフォード大学に留学していた大正12年1月26日の写真である。この写真は、『黒田チカ資料目録』(お茶の水女子大学ジェンダー研究センター、平成12年3月)でも見ることができる。しかし、そのキャプションには「オックスフォードにおいて留学生加藤文雄(中央)がマンチェスター大学に入学するのを記念して チカ38歳」としかない。そこで、オタどんが全員の名前を明らかにしよう。前列左から田中寛(東京高師)、加藤文雄(日蓮宗)、黒田チカ、田中秀央(京都帝国大学)、後列左から神保格(東京高師)、手塚陸軍少佐、皆川正禧(水戸高校)、島村盛助(山形高校)である。「さすがオタどんじゃ」と言われそうだが、実はこの写真の裏に記載されていた。
 この写真が貼られていたアルバムは、今月岡崎の平安蚤の市で購入。別の写真の裏側に、大正11年9月7日朝留学の際榛名丸に同船せし2等船客とマルセーユ港で撮影した旨が記載されていて、その船客の中に田中秀央(京大助教授)の名があったからである。大正期に海外留学しているなら、アルバムの旧蔵者も相当な人物だろうという読みもあった。
 ところが、持ち帰って調べると、表紙裏に「H.Tanaka./2583*1.Ⅶ.26./Oxford.」とあるほか、加藤とお互いを撮り合った写真があるなど、田中自身のアルバムと判明して驚いた。普通は、キャプションに自身のことは「自分」と書いたり、空欄にする場合が多いと思われるが、田中は自分のフルネームを記載していて、ありがたくもあり、紛らわしくもあった。
 日本最初の西洋古典語学・古典文学研究者だった田中*2については、菅原憲二・飯塚一幸・西山伸編『田中秀央 近代西洋学の黎明:『憶い出の記』を中心に』(京都大学学術出版会、平成17年3月)に詳しい。同書に収録された田中の自叙伝『憶い出の記』(昭和41年3月30日)によれば、大正11年7月25日文部省海外留学生として氷川丸で出発。「氷川丸」は田中の記憶違いで、前記のとおり、正しくは榛名丸と思われる。また、マルセーユ港到着日が空欄になっているが、前記撮影の時期と思われる。
 オックスフォード大学留学中は、浜田耕作から紹介された下宿に滞在した。ここには、加藤、島村、皆川のほか、先に同大学に留学していた黒田も同居している。下宿のダイニング・ルームで黒田と共に映る写真もあった。撮影者は、加藤である。

 加藤の経歴は、『仏教年鑑:昭和5年』(仏教年鑑社、昭和4年12月)の「人事篇」から要約すれば次のとおりである。近代仏教研究者なら知っていそうな人物ですね。

加藤文雄
明治21年東京生
大正2年東京帝国大学文科卒後、日蓮宗名刹承教寺に住し、日宗社を宰して文書伝道に努め、又日蓮宗留学生としてオックスフォード大学に学び、『法華経』の英訳を完成し、帰朝後立正大学に基督教を講じた。

 また、田中は東京帝国大学文科大学在学中渋沢栄一の学寮に住んでいて、そこで親しくなった孫の渋沢敬三横浜正金銀行員としてロンドン支店に来ていて再会したため、敬三夫妻の写真もアルバムにあった。新1万円札の肖像になった祖父の栄一に似てますね。

 随分貴重なアルバムを骨董市で見つけたものである。京都大学大学文書館の西山先生が将来田中の伝記を書くようなことがあれば、お貸ししなければいけないか。
追記:東北大学史料館が所蔵する黒田チカ宛田中秀央葉書(昭和28年)(「田中秀央書簡 | 東北大学総合知デジタルアーカイブポータル」)に「Oxford時代の写真帖御用ずみの上は御返送下され度」云々とあって、上記アルバムは一時期黒田に貸されていたようだ。

*1:皇紀2583年は、大正12年に当たる。

*2:一般の人は田中秀央(たなか・ひでなか)を知らないだろうが、皓星社の忘年会でこのアルバムについて話題にしたら、古本フレンズの皆様は、「ラテン語の田中」とすぐ分かってくれた。さすがである。