神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

静坐社の足利浄円と仏教児童博物館の中井玄道

先々週東京古書会館で『静坐 自八巻七号至十七巻九号』と背表紙に書かれてバインダーで編綴された雑誌を発見。京都市吉田本町にあった静坐社が発行していた『静坐』の8巻7号(昭和9年7月)から17巻9号(昭和18年9月)までのうち不揃い14冊で1000円、「かんたんむ」の出品である。同誌は吉永師匠らの尽力により国際日本文化研究センターにほぼ完全なコレクションが寄贈されたが、市場にはまず出ないだろうと思って購入。購入した号は国会図書館も所蔵していて、戦前の雑誌の内務省から帝国図書館への交付率は低い筈だが本誌はある程度所蔵していて、ちょっと残念。
パラパラと見ていて17巻9号(昭和18年9月)の「編輯後記」に次の記述を発見。

(略)夏の実習会には二日もつゞけて足利先生御出席、いつもながら尊いお話をあそばして頂き(略)三日目には午後平安神宮へ参拝御庭拝見してから東山をめぐり、最後に中井先生の仏教児童博物館を見学させて頂き先生のおもてなしを受けました。(略)

仏教児童博物館については、「『田代善太郎日記』に風俗研究会や仏教児童博物館、はたまた嵯峨断食道場」などで言及したところだが、へえー、静坐社と仏教児童博物館がつながったと思った。もっとも調べてみるとこれは当たり前。「足利先生」は『静坐』の発起人の一人*1である足利浄円で、「中井先生」は仏教児童博物館館長の中井玄道と思われるが、二人は親しい関係であった。柴田幹夫編『大谷光瑞ーー『国家の前途』を考える(アジア遊学156号)』(勉誠出版平成24年8月)所収の栗田英彦「大正初期浄土真宗本願寺派における教団改革と信仰運動」によると、足利は中井と同じく文学寮(本願寺派教育機関)から高輪仏教大学に進み、終生親交を結んだという。
仏教児童博物館が戦時中も少なくとも昭和18年夏まで開館していたことはこれで確認できた。空襲はほとんどなかった京都市だから戦争末期にも開館していたかもしれない。
(参考)「京阪書房で小林参三郎『生命の神秘』を買ったら『京都新聞』に「静坐社」の記事が

大谷光瑞 「国家の前途」を考える (アジア遊学)

大谷光瑞 「国家の前途」を考える (アジア遊学)

*1:ネットで読める栗田英彦「国際日本文化研究センター所蔵静坐社資料ーー解説と目録ーー」によると、他の発起人は、蜂屋賢喜代、田坂養吉、成瀬無極、山辺習学、山口栞、二荒芳徳、清瀧智龍。