神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

鍵善良房の今西善造と田中緑紅ーZENBI-鍵善良房-で「河井寛次郎とその系譜」を開催中ー


 ZENBI-鍵善良房-は、令和3年1月に開館。「黒田辰秋と鍵善良房ー結ばれた美への約束」が開館記念特別展であった。3年目の現在は、「河井寛次郎とその系譜」を開催中である。そう言えば、6月の寸葉会で長谷川さんが田中緑紅宛絵葉書を数枚出していて、その中に鍵善良房の今西善次郎・今西善造からの年賀状(昭和12年)があった。600円。裏面は、「浩一路画」とあって近藤浩一路と思われる。干支の丑の絵である。
 『第十一版人事興信録上』(人事興信所、昭和12年3月)に、今西善次郎は立項されている。明治6年4月今西与三郎の長男として生まれ、14年に家督を相続。「鍵善本舗と称し菓子商を営み傍ら弥栄商事会社取締役たり」とある。善造(明治37年11月生)は、息子である。
 『黒田辰秋と鍵善良房ー結ばれた美への約束』(imura art+books、令和3年1月)の跡部祐子「黒田辰秋と鍵善良房」によれば、「若手作家として次第にその実力が認められつつあった黒田が、初めて鍵善良房十二代当主*1今西善造からの制作依頼を受けたのはさらに翌年、昭和6年(1931)のことであった」という。黒田は、前年の昭和5年には進々堂の創業者続木斉からテーブルセットの制作依頼を受けていた*2跡部著によれば、「鍵善良房には文化人や芸術家たちが集うようになり、夕方ともなると店頭の8畳程の畳敷きの小上がりにて芸術談義に花が咲き、文化サロンの様相を呈していたと伝えられている」という。鍵善良房に集まった文化人の中に緑紅さんもいたのだろうか。それとも一顧客として年賀状が送られただけだろうか。

 

*1:昭和6年の時点で今西善造が鍵善良房の当主であったかは、疑問がある。

*2:下鴨納涼古本まつり、チャリティー百円均一コーナーで『京都民芸だより』を - 神保町系オタオタ日記」参照