神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

夏目漱石夫人鏡子が通った峰岸米造邸における静坐会のその後

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 「平安神宮の古本まつりで東寺済世病院長小林参三郎夫人の小林信子宛絵葉書を掘り出すーー『静坐』(静坐社)の総目次を期待ーー - 神保町系オタオタ日記」などで言及した『静坐』(静坐社)の裏表紙には、日本各地(台湾・朝鮮を含む)・満洲で開催された静坐会が掲載されている。写真は、17巻2号、昭和18年8月からである。これで驚いたのは、峰岸米造の名前が載っていることである。峰岸の静坐会については、『定本漱石全集』20巻(岩波書店)注解への若干の補足ーー漱石夫人夏目鏡子と岡田式静坐法ーー - 神保町系オタオタ日記」で言及したことがある。夏目漱石の夫人である夏目鏡子が通っていた静坐会である。峰岸は、明治3年生まれ、27年高等師範学校卒業後、前橋中学校教諭、高等師範学校教諭を経て、34年同教授となり、昭和12年に退職している。
 峰岸と岡田虎二郎の静坐との出会いは、「名士の見たる静座[ママ](一)」『日本経済新誌』18巻7号(日本経済新誌社、大正5年1月)に記載されている。それによると、最初に岡田式静坐を実行したのは、喘息持ちの妻であった。妻は、知り合いの美術家の妻も同病で岡田の静坐会で完治したと聞き参加した結果、完治して熱心な信仰家となった。次いで、明治45年6月峰岸も実行し始め、今では70人も参坐者がいるという。この70人の中に鏡子夫人がいたことになる。峰岸は大正9年の岡田の死後も、戦時中まで静坐会を開催していたのだ。
 漱石明治26年10月から28年3月まで高等師範学校の英語嘱託だったので、峰岸は漱石から英語を教わっていた可能性がある。また、妻の知り合いの女性の夫である美術家が橋口五葉か津田青楓だったら面白いが、それはないか。鏡子が峰岸の静坐会に参加するようになった経緯を知りたいものである。
 ところで、『石川三四郎著作集』7巻(青土社、昭和54年7月)を見ていたら、昭和25年11月24日付け島田宗三宛葉書に次のような記載があった。

(略)一昨日新宿中村屋に岡田虎二郎氏記念会が催され二十人ばかり集まりました。木下の正造君*1も見え、御噂さいたしました。(略)

 『相馬愛蔵・黒光のあゆみ』(中村屋、昭和43年9月)35頁には、「虎二郎が大正9年に急逝したので夫妻は静坐会から遠のいていった」とあるが、関係者との交流は続いていたようだ。この時期に『静坐』が発行されていれば、「二十人ばかり」の参加者が分かったかもしれない。しかし、発行はされていない。相馬黒光の日記が存在するはずなので、公開してほしいものである。峰岸は、昭和22年没。生きていれば、おそらくこの記念会に参加していただろう。

*1:木下尚江の息子