神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

新村出・成瀬無極の脚本朗読会カメレオンの会と小林参三郎・信子夫妻ーーそして谷村文庫の谷村一太郎もまたーー

f:id:jyunku:20210608195457j:plain
 『秋田雨雀日記』1巻(未来社、昭和40年3月)に新村出の脚本朗読会カメレオンの会と野淵昶のエラン・ヴィタール小劇場が出てくる。

(大正九年)
 五月十六日★
 午後一時三十分の汽車で神戸を出発、京都へきた。四時前についた。林久男君がきていた。三人で、谷村という人の家を訪う。「仏陀と幼児の死」を買いそろえていた。新村博士および夫人はじつに感じのいい人だ。「土の子供」(園池、西、新村夫人、関嬢、折口教授、成瀬教授)「二十一房」(有島、殺人)故買(原)、新聞記者(野村)、教師(関)、重役(ぼく)看視(新村博士)、その他チエホフの「犬」を林君、野村君、新村夫人がやった。非常に感銘の深い会であった。
 (京都へきた。脚本朗読会へ出席。)
★編者註 この京都旅行は「カメレオンの会」のためのものであった。

 十月二十一日
 (略)すぐその足で公会堂へいった。野淵君がいっしょうけんめいに働いていた。野淵君の態度に感激した。「検察官」と「三つの魂」とをやった。(略)西田氏の家に世話になることにした。夫人は小川澄子というエランヴィタール社の人だ。いつか、赤帽の会であった人。
 (略)

 十月二十二日
 (略)十二時ごろに、西田夫人と丸山公園の朗読会に出席の目的で、成瀬君の家を訪うた。三人であけぼのへゆく。(略)新村博士夫人と小林夫人なぞがきた。「ノラ」と「国境の夜」を朗読した。万養軒で、林、板倉、西田、園池の諸君と会食した。六時から、公会堂で「三つの魂」、「検察官」をやった。(略)

 秋田の年譜によれば、大正9年5月16日演劇朗読会「カメリ[ママ]オンの会」に有島武郎と2人で臨み、「土の子供」「二十一房」(秋田)と「犬」(チェホフ)を朗読。有島は「二十一房」の殺人犯の役を、新村は看守の役を務めた。
 「西田」と「折口教授」が出てくると、天王寺中学同窓で親しかった西田直二郎折口信夫が浮かぶが、無関係だろう。西田の妻は、大西祝の長女道子である。折口信夫は、当時まだ國學院大學の臨時代理講師でこの年の9月に講師(専任)になっている。また、エラン・ヴィタール小劇場は大正8年11月一燈園の後援で「出家とその弟子」を公演しているが、「西田」は西田天香でもないだろう*1
 『美意延年:新村出追悼文集』(新村出遺著刊行会、昭和56年7月)を見たら、秋田が苗字しか書いていないカメレオンの会のメンバーが分かった。阪倉篤太郎「重山先生の追憶」によると、

(略)思ひ出の深いのは、故成瀬無極の発企にかかるカメレオン会と称する脚本朗読の集まりのことで、先生御夫妻をはじめ、福田夫人・小林夫人・林久男・奥田賢・野村梅吉・武田鉄五郎・園池公功・森安正等の諸氏を同人とし、わたくしもこれに加はつて、毎月一回日を定めて小林ドクトルのお宅で開かれた。(略)昭和十五年頃まで継続された(略)

 これで、「園池」は園池公功、「成瀬」は成瀬無極(本名・清)、「板倉」はおそらく「阪倉」の誤植と分かる。また、メンバーに第三高等学校の教授・講師が多い*2ので、「折口」は正しくは折竹錫教授(仏語)かと推測できる。秋田の日記は、誤植(又は誤刻)が多いので要注意である。
 そして、京都で小林ドクトルとか小林夫人とか言ったら、あの人ですね。済世会病院長小林参三郎と夫の死後静坐社を興す小林信子夫人である。前記追悼文集の小林信子「思い出」に次のようにある。

(略)大正十年ころに阪倉篤太郎先生と成瀬無極先生が二ノ宮町の家へご来訪にて、こんど脚本朗読会をはじめたいと思うということにてお話はすぐまとまり、大学、三高の先生方、実業家とご婦人達は新村とよ子夫人、福田信子夫人、関口くのさん、小林信子のメンバーで、カメレオン朗読会と名のって(略)ご常連の御客様の筆頭は神戸正雄博士ご夫妻でした。いつの会でしたか新村先生がご出席、お役はたしか法然上人か日蓮上人でした。(略)
 昭和二年、静坐社が創立され、私は静坐誌の編輯のご用をいただき、創立委員の先生方はじめ新村先生は時々、成瀬先生は毎号、文芸座談に御執筆いただき(略)

 拙ブログで言及する人は、みんな繋がってきますね。いや、もう一人いる。家を提供した「谷村」である。これは、「谷村文庫の谷村一太郎は本当に東京専門学校卒か - 神保町系オタオタ日記」で言及した谷村一太郎だろう。谷村の長男順蔵と新村の長女幸子が大正13年9月に結婚するほど、2人は親しかった。また、谷村は京都市上京区に住み、藤本ビルブローカー銀行取締役(のち会長)等を務める実業家であった。信子が「実業家」を挙げたのは、谷村のことだろう。残された未解明のメンバーは、新村の日記を見れば解明できるかもしれない。
 エラン・ヴィタール小劇場についても、まとめておこう。松本克平『日本新劇史:新劇貧乏物語』(筑摩書房、昭和41年11月)によれば、大正7年に創設され、途中で生命座(大正10年)、美術座(12年)、京都芸術座(13年)と三度改称後、昭和2年に再びエラン・ヴィタール小劇場に戻り、昭和13年まで存続した。同志社大学神学部の野淵昶*3大島豊や英文科卒の行方薫雄(ステージでは、行方薫)らが創設した。劇団名は、ベルグソン『創造的進化』の中の「エラン・ヴィタール」(生命の躍動)から取った*4。文字通り大正生命主義の時代の申し子である。
 大正7年11月大丸呉服店楼上で開催された公開試演は、相談役に新村、成瀬、有島を、顧問に秋田、長田秀雄を迎えた。背景製作は船川未乾、中堀愛作。稽古は、行方が止宿していた椹町堀川東入佐野篤*5方を事務所にして、2階で稽古を行った。1階がカフェーだったかどうか*6
追記:ネットで読める「新村出宛書簡発信者一覧」に「カメレオン」がある。

*1:宮田昌明『西田天香:この心この身このくらし』(ミネルヴァ書房、平成20年4月)によると、天香は大正2年4月最初の妻西田のぶと離婚し、10年9月に奥田勝と入籍。

*2:成瀬は元教授(独語)、阪倉は教授(国語)、林は教授(独語)、奥田は教授(数学)、野村は講師(独語)。

*3:松本著によると、野淵は堺の医師の息子で神学部に在籍しながら谷崎潤一郎張りの唯美主義的な肉感的描写の小説を校内誌に発表したため、無期停学となった。憤慨した野淵は、退学届を叩きつけて京都帝国大学英文科選科に転じたという。『京都帝国大学一覧』等を見ると、大正5年選科入学、8年卒である。

*4:ベルグソンの思想を彼らに啓蒙したのは、同志社大学講師(のち教授)の園頼三であった。

*5:佐野は、京都の素人芝居の通人で南座で松王丸をやったこともあり、自分も学生に混じり出演したという。

*6:中原中也が通った京都のカフェーとエラン・ヴィタール小劇場 - 神保町系オタオタ日記」参照