神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

京都で単純生活社を創設したキリスト者瀧浦文彌の「丹田十字架」ーー『腹を錬る:夜船閑話通解と根本的治病法信仰鍛錬法』と『平田式心療法』からーー

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 瀧浦文彌『腹を練る:夜船閑話通解と根本的治病法信仰鍛錬法』(単純生活社、昭和9年6月)という変わった本が、だいぶ前から積ん読状態である。青空古本まつりの均一台で拾ったものか。瀧浦の経歴を調べて見ると、ビックリした。既に吉永さんあたりが調べているかもしれないが、紹介しておこう。
『寄宿舎と青年の教育』(単純生活社、大正15年4月)や各学校一覧などによると、

? 宮城県
? 宮城県第一中学校卒業
? 第二高等学校入学。基督教青年会寄宿舎に入る。
明治39年 第二高等学校卒業
明治42年7月 京都帝国大学文科大学哲学科宗教学専攻卒。同級に羽渓了諦(印度哲学専攻)、澤村専太郎(美学専攻)
明治42年12月~昭和3年6月 『開拓者』(日本基督教青年会同盟)に寄稿
? 和歌山県私立耐久中学校で寄宿舎教育
? 基督教青年会主事
大正12年 第三高等学校*1教授・生徒監。同僚に栗原基(英語)、大浦八郎*2(英語)、矢野禾積(英語)、平田元吉*3(独語)、中村直勝(国史、国語)
大正15年 この年第三高等学校退職か。京都に単純生活社を設立し、4月『寄宿舎と青年の教育』を刊行(序は小西重直京都帝国大学教授)
昭和5年7月 平田内蔵吉と共著で『平田式心療法:熱鍼快療術』(春陽堂)を刊行(序は栗原)

 なんと吉永さんの大先輩だった。第三高等学校教授を辞めた瀧浦は、基督教青年会主事時代に知り合った平田と春陽堂から共著『平田式心療法』を刊行。同書の「凡例」には、治療の伝播については、遠くは一燈園同人の托鉢、近くは栗原氏・瀧浦氏の御好意とある。西田天香一燈園の機関誌『光』に平田が寄稿していることは、「西田天香の『光』(一燈園)に金子白夢や霊光洞の西昌祐 - 神保町系オタオタ日記」への吉永さんのコメントで御教示いただいていた。京都における求道者、心霊者などは皆一燈園に繋がってくる。栗原は『平田式心療法』の序で、同書誕生の経緯について言及している。春陽堂の木村諭吉が栗原邸で平田の書を読み、栗原と共に平田*4を訪問。偶々来訪した瀧浦も含めて相談し、第1部を平田が、第2部を瀧浦が執筆することが決まったという。
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 『腹を練る』は前篇が白隠禅師の『夜船閑話』の解説。後篇は、杉村廣太郎、高島平三郎、肥田春充、西式強健術、R・E・ロバート、坪野平太郎、藤田靈斎、スウェーデンボルグ、岡田式静坐法、大町桂月、黒住宗忠等からの引用が多く、混然とした文章となっている。本書の評価は私には荷が重いので、最も面白い「『丹田十字架』ーー予の唱へ方ーー」を挙げるだけにしにしておこう。珠数を手に「丹田十字架アーメン」と服誦念祷する。これもキリスト教の日本的変容の特殊な例だろう。『日本キリスト教歴史大事典』に記載されていないキリスト者には注目すべき人がまだまだいるね。
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 単純生活社は、京都市上賀茂北山町6丁目に所在した。昭和30年の『京大文学部卒業生名簿』を見ると、瀧浦は死亡者扱いである。最近まで残されていた静坐社*5と違って、とっくの昔に跡形も無くなっているだろう。