神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

昭和24年『山鉾大鑑』のノートを残して消えた風俗研究会幹事の若原史明

 「『風俗研究』138号(風俗研究所、昭和6年11月)で見る風俗研究会の二十年 - 神保町系オタオタ日記」で言及した風俗研究会(江馬務主宰)の若原史明の経歴が判明。『祗園会山鉾大鑑』(八坂神社、昭和57年6月)の若原英弌*1「若原史明の思い出」に記載されていた。明治28年京都市生まれで本名玉五郎。父親は、下京区の金英堂(京銅器の製造卸商)の寺沢卯七(天保11年生)*2。「史明」は、通学していた有隣小学校の校長岩井藍水が10歳ばかりの玉五郎に与えた俳号であった。
 明治44年11月藍水を通して知己となった江馬務と風俗研究会を創立し、吉川観方らと幹事として活動。生涯を通して継続したのが、山鉾の調査であった。勤務先の今与商店(呉服小物類卸商)の店主今西弥三郎(俳号寿考)や八坂神社宮司江見清風、蒐集家杉浦丘園の支援を受けた。灯火管制の下でも『山鉾大鑑』のノートの浄写を続けた。しかし、昭和24年の冬、ふらりと旅に出たまま、不帰の客となったという。
 昭和24年に亡くなったのかはっきりしないためか、国会図書館オンラインにおける本書の著者標目は生年のみ入力している。ネットの「知られざる京都の文化財」(京都市文化観光資源保護財団)では、「1895~1949?」となっている。二年連続で祇園祭山鉾巡行が亡くなった今、あらためて生涯をかけて山鉾の研究をした史明に注目したいものである。
追記:ネットで読める竹内千代子編・校訂「芭蕉堂門人録ーー影印と翻刻ーー」(立命館大学アート・リサーチセンター)の「凡例」に史明は昭和24年12月22日没とある。

*1:史明の兄英三郎の息子

*2:卯七は、若い頃官版御用書林村上勘兵衛(「トンデモハンドで御用御書物所の村上勘兵衛が発行した『議案録』(明治2年)を掘り出す - 神保町系オタオタ日記」参照)に奉公して、蔵書や出版物を読み漁り知識を得て、「破れ節用集」と呼ばれたという。