神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

大正期日本のバハイ教徒

『大本七十年史 上巻』によると、

大本とバハイ教との関係が最初にできたのは、一九二二(大正一一)年七月二八日、二代教主が伊豆にむかう途中のことであった。三島駅から大仁へむかう電車のなかで、二代教主の一行は、アンダ・エ・フインチという当年六六才の米国婦人にであった。彼女は三年前から、バハイ教宣伝のために来日しているということであった。
これが機縁となって同年の九月九日、突然フインチは綾部に二代教主を訪問した。(略)
バハイ教のフインチが綾部にきてから、約八か月のちの一九二三(大正一二)年四月二二日に、彼女は同じバハイ教徒のルート女史をともなってふたたび大本をおとずれた。

同書には「左よりフインチ 二代すみ子 王仁三郎 ルート 通訳・西村」とキャプションのある写真も掲載されている。バハイ教徒のフィンチやルートの名前は秋田雨雀の日記に見ることができる。

大正4年7月16日 福田君とともにアレキサンダー女史を訪う。(略)アメリカのルートという婦人がきていた。この人はバハイイズムの宣伝者だそうだ。三十五六の人であった。バハイイズムのことを熱心に話していた。

   7月18日 バハイイズムのルート女史の会合。(略)ルート女史は報知の記者倉沢君と談話していた。長沢君、福田君、神近女史もいて、写真をとった。

   7月22日 夜アメリカからきた女記者のルート女史がエスペラントストを招待した。(略)ルート女史はいいところのある女だ。

  8年11月26日 バハイ・ミーテング、ミス・アレキサンダー、ミス・フィンチ、ミス・ハヂソン、エロシェンコなぞにあった。

  11年1月7日 午後二時から統一教会でアブドュル・バッハの追悼会があった。ミス・アレキサンダー、ミス・フィンチにあった。ぼくも感想をのべた。

バハイ教徒は警察の監視下にあったのではないかと推測しているのだが、秋田の日記に、

大正13年2月28日 朝、警視庁の高木刑事がバハイのことで来た。

とある。また、昭和期になるが、アジア歴史資料センター所蔵文書で、
・「世界新教「バハイ」教講演ニ関スル件」(昭和5年12月22日付外秘第四三八四号警視総監通知)に、麹町区富士見町二丁目三十一番地櫻井ホテル止宿の米国バハイ教伝道師マルス・エル・ルートが、同月20日報知新聞社で講演を行ったことが記録されている。
・「米国婦人ノ宗教運動ニ関スル件」(昭和7年9月8日付外丁第一四九八号北海道庁長官通知)に、麹町区富士見町二丁目三十一番地の米国人アグネス・アレキサンダー50歳が、同月2日函館市民館で講演会を行ったことが記録されている。

(参考)
秋田雨雀とポール・リシャール」(2007年8月13日
バハイ教徒アグネス・アレキサンダーとその時代」(2008年3月27日
姉崎正治とアグネス・アレキサンダー女史」(同年5月18日
「元祖モダンガール望月百合子とアレキサンダー女史」(同年9月16日
「大正期のアウトロー、遠藤順治と河合秋星」(2009年1月10日
「赤い帽子の会主催のタゴール訪問」(2010年8月18日