神保町系オタオタ日記

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石井妙子『原節子の真実』(新潮社)への補足ーースメラ学塾は昭和19年2月23日に解散ーー

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 藤澤親雄を学生時代から追いかけていて、修士論文も藤澤というビックラちょの人が、世の中にはいるらしい。そのうち、スメラ学塾についても修士論文や博士論文を書きましたという人が現れるかもしれない。もっとも、一次史料や新知見を見つけるのは、難しそうである。
 そんな中、最近スメラ学塾に言及する本が増えてきた。石井妙子氏の著書もそうである。取りあえず、氏の『原節子の真実』(新潮社、平成28年3月)を読んでみた。「第八章空白の一年」では、節子の義兄でスメラ学塾の熱心な活動員だった映画監督の熊谷久虎と節子が昭和19年秋まで東京に残っていた理由について、スメラ学塾の活動があったからだろうと推定している。しかし、そもそも社会問題研究会編『右翼事典』(双葉社、昭和45年6月)の「右翼・民族派運動年表」によれば、スメラ学塾は同年2月23日に解散している。そのため、この推定は成り立たない。スメラ学塾に言及する場合は、先ずは拙ブログの「スメラ学塾 カテゴリーの記事一覧 - 神保町系オタオタ日記」を読みましょう。
 スメラ学塾に言及する人が増えても、解散時期について言及するのは私だけだと思っていた。ところが、他にもおられた。戦後仲小路彰に師事した春日井邦夫氏(大正14年生)である。氏の『情報と謀略』下巻(国書刊行会平成26年9月)302頁に、

(略)仲小路はすでに小島威彦が執行猶予中で活動できず*1、塾員・塾生の多くが軍務に服し、また国内の生産動員で徴用されるものが後を絶たない状況下に、スメラ学塾の研究会活動が事実的に不可能となっている現実を見据え、在京の関係者たちの意見を徴し、解散することを決意した。時に昭和十九年二月二三日であり、全国の塾員塾生に文書をもって通達された。

と書いている。この部分の初出は、『ざっくばらん』平成15年2月号(並木書房)である。森田朋子「スメラ学塾をめぐる知識人達の軌跡ーー太平洋戦争期における思想統制と極右思想団体ーー」『文化資源学』4号や私が初めてスメラ学塾に言及した「情報官鈴木庫三とクラブシュメールの謎(その1) - 神保町系オタオタ日記」の平成18年より3年前だ。驚いた。この春日井氏の本で長らく疑問に思っていたことの幾つかが解明できた。恐るべき本である。春日井氏は、スメラ学塾や日本世界文化復興会に関する一次史料をお持ちかもしれない。
 ところで、石井著にも記述されている敗戦直前に火野葦平や陸軍の町田敬二*2が関係した「九州独立革命政府」について、面白いネタがある。「佐藤通次の日本神話派と岩田一の古事記研究会ーー栗田英彦先生の研究に期待してーー - 神保町系オタオタ日記」で言及した志田延義は、この「政府」で文部教育大臣を予定されていた。そして、志田と同じく古事記研究会に参加していた日本神話派の佐藤通次を研究した栗田英彦「日本主義の主体性と抗争ーー原理日本社・京都学派・日本神話派ーー」『近代の仏教思想と日本主義』法藏館に次のような記述がある。

(略)敗戦直前の一九四五年八月には、佐藤通次、井沢弘らは、「天皇を奉じて大本営を九州にうつし、薩南から上陸する敵を討ち、兼ねて、朝鮮、満州との連携を密にしなければ」という鎌倉宮の神託を根拠にした計画に関わっていた。高木とともに終戦工作に奔走した京都学派とは異なり、ここには、歴史の流れに抵抗してでも、「神国」を貫徹しようとする日本神話派の思想と行動が反映されていたのである。

 出典は、八幡師友会編『あゝ八月十五日 終戦の思ひ出 第一集』八幡師友会,昭和32年10月で、他の参加者に白鳥敏夫、清水荘平、竹内大真、今泉源吉、岩越元一郎らがいたという。白鳥はスメラ学塾のメンバーであった。この神託を根拠にした計画に他のスメラ学塾のメンバーも関係があったのだろうか。
参考:「“永遠の処女”原節子は汚れていたか? - 神保町系オタオタ日記」、「“永遠の処女”原節子は汚れていたか?(その2) - 神保町系オタオタ日記」