神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

“永遠の処女”原節子は汚れていたか?

「書物蔵」の「珍しく畏友を援護」によると、原節子スメラ学塾に協力していたようだ。
これは、初耳と思っていたら、小島威彦の自伝『百年目にあけた玉手箱』第5巻に、原の名前が出ていた。


その翌日、末次誠子*1が次女をつれて訪ねてきたところへ、珍客が現れた。原節子が薄茶の軍服姿で、ズボン履きの男装で颯爽と現れた。(中略)彼女の姉さんも、その婿の熊谷久虎も、その弟の画家、九寿とも肝胆相照らして久しい。久虎は美学者の清水宣雄と日活時代からの親友だし、九寿は梅原門下の特異な存在だが、東大哲学教授の出隆の姪と結婚してから一層親しみを増した。そんな僕たち仲間意識も手伝って、節子の『武士の娘』(トホター・デス・サムライ)の日独映画で全ドイツの脚光を浴びた節子像を誇らしく眺めたものだ。


これでは、スメラ学塾との関係がわからないね。千葉伸夫『原節子』(2001年4月、平凡社ライブラリー)によれば、


『指導物語』*2は、「大日本愛国○○会」(○○は複数の婦人団体があったためかはっきり映さない)の白ダスキを和服姿にかけて、やや小肥りになった原節子がうれし気にほほえみながらキャメラに向かってくるファースト・シーンで始まる。(中略)
訓練期間をおえた青年たちが大挙して出征するラスト・シーン(中略)の音楽はどこか御詠歌じみており、タイトルによるとスメル音楽研究所が担当した。熊谷が参画した右翼団体皇(すめら)塾との関係をうかがわせる。
熊谷が晩年語ったところでは、皇塾は、バビロニア南部に発生した世界最古の文明といわれるシュメール文化東漸の結果大和民族となったとし、白色帝国主義の中心にユダヤ人をみ、その排撃を意図した団体。近衛内閣の内相で海軍大将末次信正をいただき、塾頭が西田幾多郎門下の小島威彦、資金の出所は陸海軍と情報局、神田の共立講堂を本拠地に最盛期塾生三万人を擁した、という。


何と、スメラ学映画があったみたい。ぜひ、観てみたいものだ。
また、同書によると、今井正「戦争占領時代の回想」*3に、「熊谷さんは(中略)すめら塾という極右団体に入って、かなりえらいところまで行ったんじゃないの。だから、この影響で、原節子まで、ユダヤ人謀略をとなえるありさまだった。」とあるという。原節子が筋金入りの反ユダヤ主義者だったかどうかはともかく、スメラ学塾に深く関与していたのは事実みたいだね。

*1:スメラ学塾の塾頭末次信正の弟猛夫人

*2:熊谷久虎監督、東宝制作、昭和16年10月4日封切

*3:『講座日本映画』4、岩波書店、1986年