神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

三密堂書店の100円均一台で易者神山五黄の正体を掴むーー宮武外骨の仲人神山五黄とはーー

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易学書の専門店である京都の三密堂書店の100円均一台は昔から古本者がよく立ち寄るスポットである。水明洞無き現在、林哲夫画伯や扉野良人氏がいいものを拾ったという場合大抵三密堂だろう。さて、先日藤本一恵『東山五十年』(昭和53年3月)という私家版211頁の本を見つけた。著者は、明治45年和歌山県生、戦前は京都女子専門学校教授、戦後は京都女子大学教授兼京都女子大学短期大学部教授を務めた国文学者である。本書は藤本の退任記念に『女子大国文』『国文学学会会報』等に掲載した随想等を集めたものである。この中に神山五黄という易学者が出てきた。先ずは、会報から転載された藤本の元同僚千田憲「波の淡路」(『国文学会会報』30号,昭和40年2月)である。

(略)或る夜、五高以来の友人、神山五黄が細君帯同でやって来た(略)その細君は、金沢出身で、京都で、義太夫を語って高座の真打ちを務めた事もあり、京大ドイツ文学科の学生、神山と、芸が取り持つ、恋愛結婚の大あつあつの夫婦なのである。(略)

続いて、藤本の「波の淡路余録」(同号)。

(略)
千田先生五高以来のご親友、神山五黄先生には、ひよんなことで二度ばかり面謁した。昭和二十三年麦秋(略)京大ドイツ文学科出のインテリ陰陽師というに引かれ、浄土寺馬場町の五黄先生の門を叩いたのであった。ぜい竹を徐ろにさばいての先生の予言は九分通り的中した。

京大独文卒の易者がいたのかと驚いた。五高、東京帝大、京都帝大各一覧、国会図書館サーチ、木本至『評傳宮武外骨』(社会思想社、昭和59年10月)などで判明したことをまとめると、

神山義次(五黄)
明治? 岐阜県
明治41年6月 『龍南会雑誌』(龍南会)に千田憲らと共に「就任之辞」を掲載
明治42年7月 第五高等学校第一部独語文科卒。同級に千田(英語文科)
同年9月 東京帝国大学文科大学文学科入学
大正4年9月 京都帝国大学文科大学文学科入学
大正7年7月 京都帝国大学文科大学独文学専攻卒。同級に矢野禾積(英文学専攻)
大正7年11月8日 東京朝日新聞に鑑定料一円の広告
大正8年12月 『今年の運勢 大正九年』(発行文武堂書店、編纂所神山易断所)刊行
大正10年1月 『恋愛』(日本性学会)1巻1号に「男女和合の霊薬」掲載
戦時中 京都に疎開

京大卒業後直ぐに鑑定を始めていたことが分かる。『易占入門』(大明堂書店、昭和24年4月)には、「大学卒業後、周囲の猛然なる反対を押し切つて、易占家として世に立ち」とあるので、京大独文卒なのに・・・という意見が多かったのだろう。東大から京大に移っているが、東大の卒業は確認できない。なぜ京大に入り直したのだろう。
木本著によると、大正15年4月宮武外骨と小清水マチの結婚の仲人をしたという。斎藤昌三が『三十六人の好色家』等で仲人を西垣某としているが、横田謙三郎所蔵の同書に三田平凡寺による仲人は神山五黄という易者との書き込みがあるという。神山は趣味人のネットワークに属した人だったのかもしれない。そんな神山の悲しい最期が木本著に記されている。

自殺したマチ女と外骨の結婚の仲人をつとめた易者の神山五黄が二十五年夏に京都で人生を閉じている。「神山先生は自宅前の白川に架かる馬場橋で死のうとしたが、人目があって死ねず、自宅の手摺に紐を懸け首を吊って死にはった。私の離婚を当てたが、ご自分の運命がわからなかった」と隣家の女主人は語る。(略)

(参考)「宮武外骨の妻を寝取った松井史亨

評伝 宮武外骨

評伝 宮武外骨