神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

千里眼事件の最中に「京大光線」を発見した京都帝国大学の学生三浦恒助のその後

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 10月20日京都新聞第1面に驚いた人も多いだろう。「『人文書院』前身は霊術団体」とか「『日本心霊学会』の資料発見」というおどろおどろしい見出しが躍る。お馴染みの樺山聡記者の記事である。日本心霊学会の資料が人文書院から見つかったこと自体は既報であるが、調査が一定進んだことから、3回に渡る連載で特報したのだろう。最終回は地元京都の新聞ということもあり、千里眼事件の最中に「京大光線」を「発見」する京都帝国大学の学生三浦恒助に注目している。

 そして、京都帝国大学文科大学長*1の命を受け、この研究課題の実行役に当たったとみられるのが、哲学科3年の三浦恒助という学生だった。三浦は今村*2とは別行動で香川を訪れ、郁子*3の透視実験を行った。
 三浦は、そこで郁子の頭脳から光が放射されていることを発見し、「京大光線」と名付けたと報じられた。「大役を得た若い学生が先走ってしまったのか新聞が前のめりになったのか」。真相は不明だが、「科学的な対象となりうる光線の発見は、当時の情勢が求めるものでもあった。」と一柳教授は言う。(略)

 この三浦という学生、私は、ボケた学生を派遣したらスタンドプレーでトンデモない「京大光線」を「発見」しちゃったぐらいに思っていたが、只者ではなかった。「透視の実験的研究」『芸文』2年1号(内外出版印刷、明治44年1月)によれば、「世人の所謂不思議と称する処の者例へば狐憑、神憑、稲荷降、御嶽教降神、火渡、探湯、釜鳴、糸引名号、浜口熊嶽、蝦蟇仙乃至二三の千里眼と称する者其他これ等に類する者の数多くは機会を得る毎に求めて親しく実験して見た」という。「昭和8年の『斎藤隆夫日記』に浜口熊嶽の診療所 - 神保町系オタオタ日記」で紹介した浜口にも接触していたんだ。
 三浦の経歴の全貌は、未だ不明である。国会図書館の「第2章 学者たちの論争を読む|本の万華鏡 第13回 千里眼事件とその時代|国立国会図書館」では、生没年、京都帝国大学医科大学卒業後の経歴が不詳となっている。
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 しかし、ある程度の経歴が判明したので、報告しておこう。明治44年7月に京都帝国大学文科大学哲学科心理学専攻を卒業後、同月20日から大正2年10月10日まで京都市立美術工芸学校の嘱託教員であった*4。校長は、三浦の恩師である松本亦太郎が京大教授と兼務していた。三浦はこの間の大正元年9月京都帝国大学医科大学へ入学し、大正5年11月に卒業している。国会図書館がこの後の経歴が不詳としているのは、誰が担当したのか知らないがいささか不用意な記述である。三浦は学士だから、先ずは『会員氏名録』(学士会)を見ればいいだろう。たとえば、昭和4年用(昭和3年11月)では、京大医学部講師である。『京都帝国大学一覧:自大正七年至大正八年』(大正8年8月)で確認すると同学部微生物学教室の助手で、『同:自大正十五年至昭和二年』(昭和2年3月)では同教室講師と分かる。これらのことからも、京都新聞に「三浦が大学から処分を受けた形跡はない」とあることが、ある程度裏付けられる。
 三浦の最期だが、昭和6年用『会員氏名録』に記載がない。おそらく、昭和3年11月から4年10月までの逝去会員が載る昭和5年用の『会員氏名録』を見れば没年が分かると思うが、国会図書館にない上に所蔵する中之島図書館の書庫が工事中で見られない。まあ、一柳廣孝先生がいつか調べてくれるかもしない。
参考:「3年後の令和4年が人文書院100周年 - 神保町系オタオタ日記

*1:松本文三

*2:京都帝国大学医科大学精神病学教室担任教授の今村新吉。「フランス文学志向だった今村新吉博士 - 神保町系オタオタ日記」参照

*3:長尾郁子

*4:『百年史京都市立芸術大学』(京都市立芸術大学、昭和56年3月)による。