神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

名曲喫茶田澤畫房の店主田澤學二と看板娘田澤千代子

大正末期に神田にあった田澤畫房という喫茶店については、2009年3月10日に言及して、その後店主や看板娘の名前も判明したが、店主の経歴が不明だったので、それっきり記事にしていなかった。私がぽっくりいっても、林哲夫氏なら再発見することも可能だとは思うが、念のためこれまでに判明したことを記録しておこう。永井叔『大空詩人 自叙伝・青年篇』(同成社、1970年6月)*1によると、大正13年〜15年頃の話として、

神田神保町裏にあった田沢画房へも、よくお邪魔をした。度々御馳走にまであずかった。(随筆集「大空は詩う」中“スペイン舞踏へ文字の花束を贈る”を参照。)
名画やフランス式蚤の市を飾り、名曲をフンダンにきかせた、その“音楽喫茶のクサワケ”では、当時、まだ“千代子ちゃん”だった、未来のスペイン舞踊の第一人者(後スペインへも研究に行かれた)が白百合のように、その名画と名曲との峡(はざかい)でスクスクと育っていたのだ。
(略)
スペイン人のサラサーテ自らが吹き込んだという珍しいチゴイネルワイゼンのレコードやショパンの諸曲、さては、ベートウベンの名盤を聴き乍ら、ひと盛り十銭のピーナツをかじりかじり本格的なコーヒー等をのみのみ、ああ、幾たりの文化人が詩味、芸術の三昧境に融けこんで行ったことか。
(略)
おじさん−田沢学二氏は、今は亡きも、永久にその御厚意を謝すと共に『名曲喫茶店のクサワケ』に対しても万腔の記念的謝意を申しのべねばならぬ。(略)(追記)後に名を成した詩人−芸術家たちは殆んどミナこの店の卒業生と云っても過言ではあるまい。−少し誇張法的かも知れないが。

田澤學二の経歴は不詳だが、看板娘の田澤千代子は戦前舞踏家としては知られた存在のようで、朝日新聞のデータベースによると、

昭和7年 青山圭男、藤田繁夫妻、益田隆、田澤の5人でパイオニヤ・ワヰンテットを創立
  8年10月16日 日本青年館で第2回公演
  10年3月 昭和6年に来日した米国の舞踏家ガーネットとその愛弟子として共演
  11年秋 渡欧
  12年7月 パリ万博の日本館で「音楽の夕」に早川雪洲の司会で諏訪根自子、原智恵子らと共演
  13年9月24日 ニューヨークを振り出しに、ロンドン、パリ、ローマを巡り、帰途ニューヨークのカルロス舞踏学校でスペイン・ダンスを学び、帰国
  14年3月 石井みどり花月達子、千葉みはる、津田瑛子、矢野文子、執行正俊、檜建次ら9人で現代舞踏家集団を結成
  15年3月31日 日本舞踊を紹介に行ったサンフランシスコ万博から帰国

「田沢千代子」でググると「日本洋舞史年表Ⅱ」がヒットし、戦後も公演していたことがわかる。最終の記載は昭和42年9月17日。

その後の田澤畫房だが、『神田区史』(神田公論社、昭和2年11月)の「カフエーと西洋料理」店一覧にあがっていないので、昭和初期には閉店していたか。なお、店名の一部をあげると、

表猿楽町九 カフエー・チエリー 渡邊憲二
 同 二二 カフエー・金ノ星 大原明夫
 同 二五 カフエー・ランチヨン 宮本治彦
淡路町一ノ一 多賀羅亭 清水正
表神保町二 おとわ亭 成田むつ
 同  一〇 カフエー・ツバメ 岡田たか

「おとわ亭」は、村井弦斎の『食道楽』由来の店である。黒岩さんによると、当初の主人は「五十嵐某」とのことなので、その後経営者が変わったか。

追記:昭和10年5月26日付読売新聞朝刊に舞踏家田澤千代子の実弟神田区神保町二ノ一三喫茶店田澤畫房の長男田澤輝之助(28)に関する記事があった。

*1:昨年4月6日に触れた「ある本」とは、この本である。