阿部次郎の日記によれば、
大正6年10月29日
午後から藤間勘右衛門の舞踏会にて帝劇へ。茅野夫婦、森田夫婦、岩波、夏目未亡人、久米、赤木、松岡、徳田(秋江)、野上(豊)、横川、加藤(精)、高屋等にあふ。11月11日 久米正雄破談の報をきく*1
(略)夜五時五十分の汽車にて新橋発、鵠沼行。みな席にあり。今夜和辻にとまる。一時頃まで話す。経済向の話をきく。7年4月25日
夜精養軒にて夏目の筆子さんの婚礼披露、帰りに寺田、小宮、鈴木、野上、津田、岩波、和辻とヰ゛ヤナ、カツフエーにより十一時頃帰宅。7月15日 後藤新平宅招待会
多少の期待を持つて後藤新平宅の招待会へ行く。長田幹彦久米正雄等の顔を見て失望、水野錬太郎、永田秀次郎の顔を見て又失望と軽蔑といゝ気な点に対する怒を感ず、後藤丈は兎に角問題になると思ふ。(略)相馬事件の話をきかさる。帰らむとするに雨。四谷迄有馬[島]生馬の自動車にのり、新宿から電車なければ車*2。
破船事件のきっかけとなった久米の「一挿話」は『新潮』11月号掲載。この頃の雑誌で1日が発行日のものは、前月の25日から当月5日までに発売されたと言われる*3が、10月29日の時点では関係者の目に触れていないようだ。発行日の11月1日頃発売されたと見るべきか。それを読んだ漱石の未亡人鏡子が久米の下宿を訪問し、破談ということになる。破談というビッグニュースは漱石の門下生に広まることとなるが、阿部は誰から聞いたのだろうか。この頃阿部と親しかったのは、鵠沼に住んでいた和辻哲郎のほか、阿部が編集主幹となってこの年の5月に創刊した『思潮』(岩波書店)の同人、石原謙、小宮豊隆、安倍能成だが、この中の誰かから11月11日に聞いたのだろう。同月21日付芥川龍之介の松岡譲宛書簡には「僕は今度の事件で或は一番深い経験をしてゐるのは久米よりも寧君ぢやないかと思つてゐる」と書いており、芥川は21日までには知っていたことになる。
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
- -
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
田澤畫房は昭和10年まで存在してました。昨日に追記。