中山啓(中山忠直)については、『日本近代文学大事典』に「大学卒業後、前田河広一郎編集長の「中外」編集部にいたことがあり、尾崎士郎や松本淳三と交わる」とある。このうち『中外』編集部にいたという点は、満川亀太郎の日記で確認できる。
大正10年4月10日 此日終日を費して「中外」原稿四十枚を完成し、夕刻速達にて送る。
4月11日 中山啓君より礼状来る。
満川の「新軍国露西亜の出現と日本」は、『中外』4巻1号(大正10年6月)に掲載されている。ところで、『満川亀太郎日記』の「主要登場人物録」に、
中山忠直(1895-1957)漢方医学者、思想家、画家、詩人、『自由の廃墟』(1922)、『火星』(1924)はSF詩の代表作、猶存社同人。
とある。中山が猶存社同人だったとは初耳。ただ、同日記に、
とある。また、中山の『日本に適する政治』(中山忠直、昭和15年11月)には次のようにある。
たゞ早稲田では只一人、余より学識のある教師を見出した。それは畑違ひの文科の北昤吉であつた。氏はその頃は雑誌にも書かず、全く隠れた篤学の士で実に良かつた。この人だけには余は心から心服し、よく御宅へも遊びに行き、クロポトキンの『パンの略取』『相互扶助』『田園・工場・仕事場』などを借りて読んだ。余にしきりに雑誌に評論を書くことをすゝめた。氏は『中外』ではお気の毒なヒルキツト問題を起した。先生が外遊する時も、余は行くなと云ひ、代議士に立つ時も心から中止をすゝめた。学者で通してゐたらと、今でも惜まれて仕方がない。氏の紹介で、兄の輝次郎(一輝)とも交り、いよいよ革命家たるの信念が固まつて行つた。
中山は大正6年早大商学部卒。社会主義者から国家社会主義者に転向し、更に日猶同祖論*1や竹内文献*2ともかかわるトンデモない人物となる。このような中山を生み出したのは、早稲田大学のオカルト教師とも言うべき北昤吉*3だったようだ。
なお、北は大正13年6月16日付読売新聞「詩集「火星」を読む 中山啓君の近業」で、『火星』を贈られ、「君が早稲田の商科の学生であつた時代からの知り合ひの関係もあるが、君の変らぬ友情に就いては、僕も大いに多としてゐる」と書いている。