神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

昭和3年『新青年』の夢野久作や『ルコック探偵』を読む後の國學院大學学長佐藤謙三


 たまたま佐藤謙三の日記*1を読んでいたら、『新青年』が出てきた。

(昭和三年三月)
九日(金)曇 3º 5.35
(略)
『キング』もつまらない。『クラク[ママ]』か『新青年』なら少しは刺激も有るだらうが。
(略)
(同年十月)
七日(日)雨
一日家、風邪気味。読書で暮す。
新青年』、『科学知識』共に読むべしだ。
(略)
(同年十二月)
十八日(火)晴
(略)
午后『新青年』を見る。「押し絵の奇跡」だなんて、たいした事はない。何処かで聞いた事がある様な話さ。(略)
二十五日(火)晴
(略)
今日はたいした収穫なし。『新青年』を一寸見る。もうそろ/\あきたよ。(略)『世界大衆』など、時間が惜しいと計りで読まない。こんなものにタイムを使つてはと思ふあまり。でも、そんな事言つてたら、だめだ。大いに読むべし。片つぱしから片付けてかう。
二十九日(土)曇、晴
(略)
秋声氏の『足跡』を少し。あんまり面白くもない。でも、『世界大衆』よりよい。何故つて、西洋物は名前を覚えるのに骨が折れてね。探偵小説なんかの面白いのだといゝがね。
(略)
三十一日(月)曇、雨
(略)
『世界大衆』、ルコック探偵だなんて嬉しいのをよむ。面白かつたよ。
(略)
(昭和四年一月)
三日(木)晴
(略)
探偵小説を読む。味をしめてね。『河畔の悲劇』とか。面白かつたよ。すら/\進めて文句はない。
(略)

 『新青年』をリアルタイムに読んでいる日記は初めてかな。ただし、股旅堂の古書目録に出品された日記に出てきたことがあったような気もする。昭和3月12月18日の条に出てくる「押し絵の奇跡[ママ]」は夢野久作の作品。評価が厳しいですね。
 昭和3年12月31日の条の「『世界大衆』、ルコック探偵」と4年1月3日の条の「『河畔の悲劇』」は、世界大衆文学全集第26巻のエミール・ガボリオ著・田中早苗訳『ルコツク探偵・湖畔の悲劇』(改造社昭和4年1月)のこと。こちらは面白いと評価してますね。
 日記の筆者は後の昭和45年國學院大學学長となる人物で、昭和3年当時は4月に國學院大學予科に入学したばかりの数え19歳の青年であった。王朝文学研究を専門とすることになる佐藤だが、多感な青年期には幅広い読書をしていたことが分かる。

*1:『佐藤謙三著作集第5巻』(角川学芸出版、平成17年1月)

府立大阪博物場の入場券ーー明治・大正期現マイドームおおさかの地にあった博物場ーー


 昨年開催された展覧会で特に記憶に残るものの一つが、大阪くらしの今昔館の「なにわを語る明治・大正・昭和の絵葉書」である。日本絵葉書会創立二十周年記念展も兼ねた展覧会であった。日本絵葉書会の会員が所蔵するお宝の絵葉書がこれでもかというくらい大量に出品されていた。第5回内国勧業博覧会明治36年)関係、大大阪記念博覧会(大正15年)など大大阪時代関係、大阪画壇関係のほか、特に趣味人による絵葉書が圧巻であった。情報量が多過ぎるのと観た傍から記憶から消え失せていくお年頃なので、2回観に行ったがほとんど忘れてしまった。幸い図録代わりに、絵葉書会発行(令和元年5月)の『絵葉書「大大阪時代となにわ人士」』(千円)を売っていたので、それを見て思い出している。
 府立大阪博物場中央館(写真?)と入場券(絵画)が載る絵葉書(推定:明治40年4月~大正7年3月)が出ていて、これは展覧会にもあった。大阪博物場は、明治8年マイドームおおさかが建っている地に創立された施設である、それで、6年前に三密堂の100円均一で買ったスクラップ類の中に同博物場の入場券があったことを思い出した。入場券等が10枚貼られていた中の1枚である。冒頭に写真を挙げておいた。「二四」という番号が手書きされていて、時期は不明だがこの日の24番目の入場者と分かる。「府立大阪博物場」の公印も押されている。これを見ると、入場者が列をなす中、お役所仕事の受付がその都度一枚一枚番号を書き、公印を押す姿を想像してしまう。
 なお、展示されていた絵葉書に描かれた入場券は昔の鉄道の硬券切符タイプのもので、端に入鋏され、公印は押されていないようだ。おそらく、私が入手した公印を押す入場券の方が古く、その後硬券切符になって押印を廃止したのだろう。

 

12月31日冬コミで『戦時・占領期出版史資料索引ーー戦時企業整備・公職追放・ミニ社史』を発売ーー公職追放になった評論家本荘可宗に注目!ーー


 『二級河川』17号(金腐川宴游会、平成29年4月)掲載のトム・リバーフィールド「『公職追放に関する覚書該当者名簿』のメディア関係者・文化人五十音順索引」は、重宝して拙ブログで何度も利用させていただいた。例えば、次のエントリーである。

「『公職追放に関する覚書該当者名簿』のメディア関係者・文化人五十音順索引」が完成 - 神保町系オタオタ日記
あらためて、その凄さを知ったトム・リバーフィールド編「『公職追放に関する覚書該当者名簿』のメディア関係者・文化人五十音順索引」ーー大日本言論報国会・国際政経学会幹部の公職追放者ーー - 神保町系オタオタ日記
公職追放に関する研究の進展を期待してーー公職追放になった女性の数すら不明な現状ーー - 神保町系オタオタ日記

 普通の人は、特定の個人が該当者かどうか、該当者の場合は該当事項を確認するのに使うだけだろう。ところが、私の場合は氏名と該当事項の全部を読んでしまうのである。しかも、何度も繰り返し読むのである。このリストは、読み返す度に発見がある宝の山である。
 例えば、本荘可宗(ほんじょう・かそう)という評論家がいる。経歴は、「本荘 可宗とは - コトバンク」参照。該当事項は、「著書現代人ノ課題国家ト個人等ニ於テ全体主義ヲ主張シ戦争遂行ヲ理論的に[ママ。以下同じ]キソ付ケタ」である。何度も読んだのにうっかりしていて、「現代人ノ課題」や「国家ト個人」が書名であることに最近ようやく気付いた。前者は『現代人の課題』(千倉書房、昭和16年1月)、後者は『国家と個人』(千倉書房、昭和13年12月)である。「著書」を該当事項とする文化人は多いが、具体的な書名まで書かれているのは、『アメリカはどう出るか:大東亜戦争と敵国の動静』(長谷川書房、昭和17年11月)を該当事項とする望月肇だけだと思っていた。ところが、2人目がいたことになる。
 本荘の当該著書は、国会図書館デジコレで読める。しかし、多忙と老眼のお年頃のせいで確認していない。読まなくても、おそらく「全体主義ヲ主張シ戦争遂行ヲ理論的にキソ付ケタ」と言うのは、随分買い被った認識だろうと推測できる。この公職追放該当事項に書名まで書かれた本荘についての先行研究はなさそうである。どなたか論文としてチャレンジしてみたらどうだろうか。
 なお、本荘の該当事項に「国家ト個人等」とある「等」については、占領史研究会編著『増補改訂GHQに没収された本:総目録』(サワズ&出版/さわや、平成17年9月)で推測できる。同書の「著・編・訳者別件数一覧表(五十音順)」で本荘の著書でGHQに没収されたものは3冊と分かる。残念ながら、著者名による索引はないので、あとは書名一覧中の著者名を全部確認する必要がある。そうすると、前記『国家と個人』のほか、『青年と死生観』(新興亜社、昭和19年7月)と『文化の転換』(良国民社、昭和17年12月)が見つかる。これにより、後者の2冊もおそらく公職追放該当事項の対象となった「著書」と推測できる。この公職追放該当事項の「著書」と前掲総目録を連関させるのは、柴田陽一『帝国日本と地政学アジア・太平洋戦争期における地理学者の思想と実践』(清文堂出版平成28年3月)で知ったと思う。
 さて、このように使えるリストの載った『二級河川』17号は実は品切れで入手できない。ところが、朗報である。同じくリバーフィールド氏が作成し、掲載誌が品切れ又は残部僅少となっていた「戦時の企業整備により誕生した出版社一覧(附・被統合出版社名索引)」や「出版社の「自社紹介」横断検索ーーミニ社史を見つける」とともに『戦時・占領期出版史資料索引ーー戦時企業整備・公職追放・ミニ社史』(2千円)にまとめられ、冬コミC101で売られるのだ。2日目の12月31日(土)東ポ42aである。まだ持っていない人や持っていても1冊にまとまっていて便利という人は是非。詳しくは、「第19回 特別編・レファレンスツール『戦時・占領期出版史資料索引――戦時企業整備・公職追放・ミニ社史』を冬コミで出します | 皓星社(こうせいしゃ) 図書出版とデータベース」を見られたい。
 「戦時の企業整備~」も便利なリストである。最近私が栗田英彦編『「日本心霊学会」研究:霊術団体から学術出版への道』(人文書院)に寄稿したコラムを書く際に役に立った。具体的には、霊術家から出版人になった関昌祐が創立した青年通信社について、戦時企業整備をされたのではないかとこのリストで調べると、たちどころに東洋経済新報社に統合されていたことが判明した。また、掲載誌を「広島桜氏」(某探偵小説研究者)に進呈して感謝されたこともあった。皆様も是非入手されたい。
 コミケでは、岸本元「小説を書いた国会議員たち」やリバーフーィルド「ライトノベル千本ノックーー3年間で1300冊を読んでみて」掲載の『二級河川』26号、河原努編著・小林昌樹解説『『出版年鑑』掲載全訃報一覧:昭和平成期著作家・学者・出版人7000人』なども販売されるので、そちらも是非。
追記:河原努編著・小林昌樹解説『戦時・占領期出版史資料索引:戦時企業整備・公職追放・ミニ社史』(近代出版研究所)が届いたので、書影を挙げておきます。収録された各リストについて、『調べる技術:国会図書館秘伝のレファレンス・チップス』(皓星社)で時の人となった小林君の解説付き。

柳田國男の周辺にいた怪しい織田善雄と『短歌至上主義』の杉浦翠子


 だんだんボケてきたのと古本を買いすぎるのと両方で、どこで買ったのか思い出せない古本が増えてきた。今回紹介する杉浦翠子編集の『短歌至上主義』10巻4号(藤浪会、昭和17年4月)も、最近西部古書会館で買ったような、違うようなとはっきりしない。と思っていたら、Twitterに写真を挙げていて先月大阪古書会館で買っていた…厚生書店の出品だったか。
 翠子は、杉浦非水*1の妻。『短歌至上主義』は、昭和8年11月創刊、昭和19年11月戦時歌誌統合により通巻122号で終刊、昭和22年7月『短歌至上』と改名として復刊した短歌雑誌*2で、翠子が主宰していた。意外と残っていないようで、日本近代文学館が4冊だけ、国会図書館が1冊だけマイクロ(占領関係資料)で所蔵している。「日本の古本屋」でも出品歴は4冊だけで、うち2冊は売却済みである。

 目次を挙げておく。驚くのは、織田善雄「『結ひ』と『結び』の原始民俗(三)」が載っていることである。織田は名古屋国語国文学会に属する住職で、エジプト文化の前代が日本の神代文化だったことを証明するために日本の神代文化を研究していた(「木村鷹太郎も真っ青、名古屋国語国文学会の織田善雄 - 神保町系オタオタ日記」参照)。柳田國男の『炭焼日記』には、柳田に竹内文書(あの竹内文献と思われる)や古神道を語る人物として登場する。経歴は、「柳田國男と「偽史」関係者織田善雄 - 神保町系オタオタ日記」を見られたい。織田は前記記事中でも、「『ムスビ』(産霊・結霊)は一説ではバビロン語の『ムチプ』と同根であると言はれてゐるが、語原の詮索は兎も角、思想の中心をなす具体的事実は、南方係[ママ]の様に考へられるのである」と脱線しかかっている。「『結ぶ民俗』と万葉集」続篇(通算第十一回)」とあって、長期間にわたる連載だったようだ。大幅に脱線して、竹内文献ムー大陸に言及していたりして(^_^;)
 ところで、織田の経歴中に「月刊短歌雑誌の発行に関与」とあるが、『短歌至上主義』の奥付に織田が発行所である藤浪会の名古屋支部として挙がっていた。織田は、寄稿するだけではなく、翠子とは相当親しかったと思われる。

*1:入手した『短歌至上主義』の奥付には、本名の朝武で発行人となっている。

*2:工藤信男編『杉浦翠子全歌集』(工藤信男、昭和57年9月)の年譜による。

東亜研究所の解散時期ーー昭和21年3月27日付け東亜研究所の昌谷忠海から小川寿一宛書簡よりーー


 今年一年、各地の古書店、京都・大阪の古本まつり、東京・大阪・京都の古書会館での古書展、臨川書店の古書バーゲンなどでお世話になりました。ありがとうございました。岡崎の平安蚤の市でも色々楽しませていただきました。
 今回は、今年最後の平安蚤の市で入手した東亜研究所の昌谷忠海から小川寿一宛書簡を紹介しよう。封筒には、2つの文書が入っていた。一つは、昭和21年3月27日付け大阪商大の小川宛通知文で、内容の一部を要約すると次のとおりである。なお、昌谷の肩書きは、「東亜研究所政治部思想班ソ連関係文献目録編纂担当」である。
・東亜研究所において作成中の『ロシヤ及ソ連邦関係文献目録』については戦時下の制約のため予定の期日に完成しなかった。しかし、諸方からの「出来上りカード」が集まりつつあった。
・ところが、諸般の事情により、3月一杯で研究所は一般業務を打ち切り、4月に解散することになった。
・手許にある「出来上りカード」については、薄謝を呈したいので至急送付されたい。
 もう一つは、「ロシヤ及ソ連邦関係文献目録編纂要旨」(東亜研究所第二部)で、「出来上りカード」も添付されていた。

 昌谷忠海(さかや・ただみ)は、『哀惜無限:昌谷忠海追悼遺稿録』(昌谷忠海追悼遺稿録刊行会、平成2年9月)の略歴譜によれば、昭和19年9月東京帝国大学文学部卒業後、東亜研究所第二部ソ連班に勤務し、『ソ連邦』翻訳や日本におけるロシア・ソ連文献カードの収集・整理に当たっていた。昭和21年3月*1の東亜研究所解散後は、日本民主主義文化連盟書記となっている。
 宛先の小川は、「では小林昌樹「戦時期ガラパゴス化の果てに見えた日本図書館界の課題」に補足してみようーーもう一つあった皇道図書館ーー - 神保町系オタオタ日記」でも言及した昭和16年京都で三田全信と共に日本図書館学会を創立した小川である。封筒に記載された京都市の住所は、『曽我物語:戸川本 巻11』(鴨長明学会、昭和16年11月)の奥付記載の住所と一致するので、同定できる。封筒には、「(大阪商科大学図書館)」との記載もあるが、『図書館人物事典』(日外アソシエーツ、平成29年9月)に立項された小川の経歴には記載がない。しかし、同図書館に勤務していて東亜研究所から依頼されたロシア・ソ連関係の文献の所蔵状況を調べていたのだろう。
 前記通知文の内容で最も驚くのは、財団法人東亜研究所の解散時期に関する記述である。同研究所は昭和21年3月以降同年中に解散したことは間違いないが、正確な解散時期は不明とされる。柘植秀臣『東亜研究所と私:戦中知識人の証言』(勁草書房、昭和54年7月)247頁によれば、昭和21年3月26日開催の理事会で解散が決議され、後継となる政治経済研究所の創立準備委員会による打ち合わせ会が6月7日から開かれ、8月14日に財団法人政治経済研究所の設立認可がされている。そのため、早ければ3月から6月までの間、遅くとも8月と推測できる。
 しかし、前記通知文によると4月解散の可能性があり、貴重な史料ということになる。近現代史の研究者で東亜研究所に関心を持つものは多いと思われるので、専門店の古書目録に挙がっていれば幾らの値段が付いただろうか。
追記:ネットで読める渡辺新「東亜研究所小史」『政経研究時報』No.13-特別号(政治経済研究所、平成22年3月)によれば、昭和21年3月31日に解散認可がされている。

*1:根拠不明

明治43年名古屋で開催された第10回関西府県連合共進会を見学した大分県師範学校?の修学旅行


 コロナ禍のせいで、なかなか神戸には行きづらくなっていたが、久しぶりに西代の古書店つのぶえへ行ってきた。キリスト教書専門店で、専門以外の雑誌・紙ものが安く出るので定期的に行きたい古書店である。
 今回は、明治43年4月6日と記された『旅行案内』を発見。日程表欄外に「本科第二学年修学旅行日程」とだけあって、どこの学校の修学旅行かは不明。ただ、出発も帰着も大分なので大分県の学校かと推測はできる。最初買うのは迷ったが、200円なので買ってみた。
 よくよく日程を見ると、4月20日に「名古屋共進会」を見物していて驚いた。というのも、『文献継承』39号(金沢文圃閣、令和4年2月)のアンケート特集で、明星大学の向後恵里子先生が明治43年名古屋鶴舞公園で開催された第10回関西府県連合共進会の地図やパンフレットなど紙もの一式を入手したと書いていて、関心があったからである。幼き日の江戸川乱歩稲垣足穂も訪れて旅順海戦館などを見たという。
 このアンケートを読んだ直後には、偶然にも『共進会案内』(名古屋経済会、明治43年3月)を京都古書会館の古本まつりで入手。京都スターブックス出品、1100円。3月16日の共進会開催前に『最新名古屋案内』の附録として刊行されたものである。旅順海戦館の紹介記事を挙げておく。

 更に、先月Twitterで@wogakuzuさんが、明治43年5月大津市から名古屋に行き共進会でサツキ人形を見たことを父親に書き送った葉書を紹介していた。これで共進会のことをあらためて思い出していたところであった。
 『旅行案内』に記された修学旅行の日程は、次のとおりである。

4月9日 大分港発
4月10日 宮島
4月11日~13日 京都・大津
4月14日~19日 鎌倉・横浜・東京・日光
4月20日~21日 名古屋・伊勢
4月22日~24日 奈良・大阪・神戸
4月25日 大分着

 2週間以上の、しかも年度始めという今では考えられない修学旅行の日程である。父兄の費用負担も大変だったのではないか。ただ、当時としてはこれ位の期間の修学旅行は普通だったようだ。大分県の「本科」ということで、大分県師範学校本科ではないかと調べてみると同校では2週間に渡る修学旅行が行われていた。
 それは、『大分県教育百年史第1巻通史編(1)』(大分県教育委員会、昭和51年3月)に大分県師範学校本科第1部第3学年の修学旅行として記載されていた。正確な時期は不明だが、明治末から大正期にかけてのもののようである。大阪、奈良、宇治山田、名古屋、鎌倉、東京、日光、足尾、長野、木曽、桃山、京都、神戸方面に2週間出かけたという。『旅行案内』に記載された訪問先や期間におおむね一致している。『旅行案内』に記載された「本科」は、大分県師範学校本科だった可能性は高そうである。

西部古書会館の赤札古本市で山村暮鳥「地獄の門」掲載の『茨城少年』大正12年1月号を


 12月10日(土)は、上京して『地下出版のメディア史:エロ・グロ、珍書屋、教養主義』(慶應義塾大学出版会、令和4年3月)の著者大尾侑子先生の講演と監修された展覧会を楽しんできました。同書の「あとがき」には、本書や展覧会に使われた発禁本、内容見本、チラシなど図書館にはない貴重な本や紙ものを保管し、古書市場で守った古書店への謝辞が書かれている。中でも特に世話になった17軒の古書店名が記載されている。具体的には、

金沢文圃閣
股旅堂
青木書店
古書往来座
近代書房
魚山堂書店
古書ワルツ
よみた屋
フォルモサ書院
石神井書林
とんぼ書林
中野書店
まなぶ書房
史録書房
古書転蓬
文生書院
ハナ書房

である。ここに挙げられた古書店の方々は、誇りに思っているのではないだろうか。
 さて、17軒の1つである魚山堂書店が出品した西部古書会館の赤札古本市で見つけた『茨城少年』11巻1号(茨城少年社、大正12年1月)を紹介しよう。魚山堂出品で400円。奥付の頁はあったが、次のおそらく広告の頁が欠けていた。しかし、山村暮鳥の童話「地獄の門」が載っているし、地方の珍しそうな少年誌なので買ってみた。山村は、当時茨城県磯原明神町(現大洗町)に住んでいた。目次を挙げておく。

 『茨城少年』(茨城少年社)は、国会図書館サーチではヒットしない。国際児童文学館が所蔵する同名の雑誌1巻5号,明治44年9月は茨城少年会の発行なので無関係と思われる。
 山村の「地獄の門」は『地獄の門』(イデア書房、大正14年4月)に収録されている。これは国会図書館デジコレで読めるので、入手した号に掲載されたものは「一」の一部であることが分かる。数号に渡り、連載されたのだろう。『近代文学研究叢書第23巻』(昭和女子大学近代文化研究所、昭和53年11月3版)の「著作年表」には、『イバラキ[ママ]少年』大正11年6月号の「渡し場にて(童謡)」が記載されているものの、「地獄の門」への言及はない。「◯」印(要再調の意)が付いているので、原本には当たっていないのだろう。やはり、『茨城少年』は入手困難な雑誌であることがうかがえる。

追記:金子未佳『野口雨情』(勉誠出版、平成25年8月)によれば、野口雨情が水戸時代に編集・寄稿した『茨城少年』は、明治44年4月創刊の教育雑誌で、創刊号から69号までは鈴木兎園(度婦)が主幹で発行、その後『茨城民友』創刊(大正4年5月)のために鈴木が離れ、四ツ倉翠波(孝宣)が引き継ぎ73号まで発行し休刊。大正8年11月長久保紅堂が同誌と『学びの友』を合併して再刊第1号を発刊したとある。国際児童文学館が所蔵する『茨城少年』第1期第5号,明治44年9月は発行所が水戸の茨城少年会、発行兼編集人は横須賀留吉となっている。発行所名が茨城少年社ではないが、記者として鈴木兎園が執筆しているので、後の『茨城少年』(茨城少年社)の前身と思われる。