神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

『関西大学史学会通信』創刊号(昭和32年6月?)


 小澤実・佐藤雄基編『史学科の比較史:歴史学の制度化と近代日本』(勉誠出版、令和4年5月)の巻末「関連年表」に、各大学の史学科の設置年が載っている。この194
9年(昭和24年)の欄に関西大学文学部史学科が挙がっていた。そう言えば、数年前に天神さんの古本まつりで『関西大学史学会通信』を見つけていたなと、積ん読本の山から掘り出す。厚生書店の雑誌100円均一台だったか。
 創刊号には発行日の記載はないが、昭和32年6月発行か。第2号は同年9月発行。どちらも謄写版で12頁、創刊号はホチキス綴じ、第2号は綴じられていない*1関西大学図書館にも所蔵されていない。なお、関西大学史学会は、現在の関西大学史学・地理学会の前身である。昭和32年当時、史学科には末永雅雄教授や魚澄惣五郎教授らが在籍していた。
 創刊号には、薗田香融藤原氏近江国」、二宮正彦「奈良時代の縣犬養氏について」などを掲載。「『史学会通信』について」に、史学会の機関誌『史泉』の第6号と第7号を合併し、末永博士還暦記念号にすることもあって『史学会通信』を創刊することにしたとある。しかし、第2号の「『史泉』次号について」には、末永から重ねて辞退の仰せがあったので、普通号として第6号を9月末に刊行することにしたとある。一方で、これから『史学会通信』は月刊になるので、原稿をどんどん寄せてくださいと、12月号までの各号の締切日を記載している。実際のところ、第3号以降は発行されたのだろうか。
 

*1:グーグルブックスで読める『史泉』第6号に「すでに配布しましたように、六月および九月に『史学会通信』(計48頁)を発行」とあり、入手した第2号は13頁以降が脱落しているか。

大手拓次が執筆した?『ライオン当用日記附録』大正15年版(ライオン歯磨本舗)


 平安蚤の市でライオン歯磨本舗発行の『ライオン当用日記』を3冊購入。昭和8年*1、10年、13年*2版である。特に函付きの2冊が嬉しい。ライオン歯磨の広告部にいた大手拓次昭和9年4月に亡くなっているので、昭和8年版(昭和7年11月)は拓次が編集・執筆に関与した可能性はある。
 ただし、『大手拓次全集別巻』(白凰社、昭和46年11月)の「資料六 大手拓次作と推定される詞文」では、大正14年版日記中の各月の「季節題詞」(12篇)と附録中の「香水の撰方」のみが掲載されている。また、同全集5巻の「年譜」大正7年12月の条は、『ライオン当用日記』大正8年版は未見だが後年の附録のうち幾項目かは拓次作かとし、編集についても拓次の創意工夫が生かされていると見られるという。
 最近、大正15年版の日記附録も入手したので紹介しておこう。142頁で、奥付はなく、この年は別冊になっている。目次を挙げておく。

 残念ながら、「香水の撰方」は載っていない。「香のたのしみ」が載っているが、拓次の作かどうか。それよりも、まったく根拠はないが「美爪術(マニキユーア)」は拓次の執筆のような気がする。朔太郎通信さん(@Sakutaro1917)、どうかしら。

*1:実際の記述は昭和22年

*2:実際の記述は昭和19年

仏教児童博物館以前の明治40年に創立されていた京都府師範学校附属小学校児童博物館


 京都教育大学附属図書館で「先生を目指した女性たちーー京都府女子師範学校の歩みーー」が、来年1月10日まで開催中。無料で図録ももらえる。大学内の教育資料館は月曜日のみ開館なので、できれば月曜日に行って両方観た方がお得である。今回出かけたのは、「『博覧』(龍谷ミュージアム)第4章「平瀬貝類博物館」への補足ーー京都にあったもう一つの博物会、京都府師範学校博物会ーー - 神保町系オタオタ日記」で紹介した京都府師範学校博物会の会員名簿の中に多くの女性名があって、京都府女子師範学校の前身である京都府師範学校女子部の卒業生・在校生と思い、何か関連する展示がないかと思ったからである。結果的には、博物会関係の情報はなかった。しかし、京都の郷土教育運動の中心であった女子師範における研究の概要や昭和15年~17年に在校した生徒の日記原本など、非常に面白い史料を拝見できたので行ってよかった。皆様も是非のぞいてください。
 さて、参考文献に『京都教育大学教育学部附属桃山小学校八十周年記念誌』(京都教育大学附属桃山小学校、昭和63年)があって、そういう資料があることを初めて知った。そして、附属小学校関係の本を幾つか見ていたら、『京都教育大学教育学部附属京都小学校百周年記念誌』(京都教育大学教育学部附属小学校百周年記念事業委員会、昭和56年11月)に驚くべき記述があった。明治40年教科外における知識と趣味を習得させるため寄付金を父兄よりつのり、校内に児童博物館と児童図書館を開設したという*1。仏教児童博物館の創設は昭和3年なので、それよりも20年以上前に京都に児童博物館が存在していたことになる。明治40年といえば、『博物雑誌』(京都府師範学校博物会)が創刊された年でもある。ただし、同誌には児童博物館に関する記述はない。ネットで読める中島金太郎「戦前期の児童博物館思想」『國學院雑誌』116巻12号,平成27年12月にも京都の児童博物館への言及はない。京都府師範学校附属小学校児童博物館に関する先行研究は存在しないのかもしれない。誰か調べていただきものである。
 なお、龍谷ミュージアムの「博覧ーー近代京都の集め見せる力ーー初期京都博覧会・西本願寺蒐覧会・仏教児童博物館・平瀬貝類博物館」は明日(11月23日)までなので、まだ観ていない人は必ず観ておこう。

*1:追記:出典は、京都府師範学校編『京都府師範学校沿革史』(京都府師範学校昭和13年3月)233頁と思われる。

謎の奥付検印を残して消えた日本心霊学会の編集者野村瑞城


 これも知恩寺秋の古本まつりで三密堂書店から。野村瑞城『白隠と夜船閑話』(日本心霊学会、大正15年5月初版・同年11月9版)を200円で。実は、既に同書の戦前発行分と戦後発行分を持っているので、普通なら買わないところである。しかし、写真のようにびっしりと書き込みがされていて、面白そうだと買ってみた。こういう「痕跡本」*1を買うと、処分しようとする時に古本屋から「値段が付きませんが…」と門前払いされるので、よい子はマネしないように。
 赤鉛筆と青鉛筆も使った書き込みで、一種の芸術性すら感じる。本文への書き込みは傍線のほか自身の感想のようだが、遊び紙や扉などに書いてあるのは、「次世代デジタルライブラリー」で調べると他の本からの転記であった。伊藤尚賢・森繁吉『一人一人の体力精力能力増進法』(一誠社、大正10年12月)と慧鶴『白隠禅師寝惚之眼覚』(前田文助、明治30年9月)が確認できた。書き込みをした旧蔵者の正体は、不明である。16頁の書き込みには、「師ニバトーサレ、狂人ニ加害サレテ入悟セル白隠 坂根亀田岩崎師ニ引キズリヲロサレタル我 アヽ妙ナルカナ/\一九二九、四、十四」とあって、仏教者かもしれない。

 奥付も挙げておこう。奥付も書き込みだらけである。だが、それよりも検印に注目しよう。この検印の文字が謎である。瑞城の他の著作にも同様の印が押されていて、向きはこれで間違いない。瑞城の本名である政造の「政」の篆書かとも思ったが、違うようだ。蔵書印さん、助けて~
 瑞城については、栗田英彦編『「日本心霊学会」研究:霊術団体から学術出版への道』(人文書院、令和4年10月)の菊地暁「日本心霊学会編集部代表・野村瑞城(政造)の作品と略歴」によれば、明治20年滋賀県生まれ、日本心霊学会編集部代表者を務めたが昭和5年には日本心霊学会や後身の人文書院との関係が消え、最後の消息としては『民間伝承』10巻3号(民間伝承の会、昭和19年)の「新入会員氏名」に同名の人物の名があるという。家蔵の戦後発行分の瑞城著の奥付には「野村」と押してあった*2ので、本人が押したとすれば戦後も生きていて人文書院と連絡があったことになる。いずれにしても、瑞城は謎の奥付検印を残して消え失せてしまい、没年は不明である。
 なお、本書裏表紙にエンボス加工された社章と思われる桜マークの中の字は、「日本心霊学会」の「心」の篆書である。

肥田晧三が語る玉樹香文房の玉樹安造(号芦城)


 @wogakuzuさんがTwitterで大阪天下茶屋にあった古書店玉樹香文堂(本来は玉樹香文房だが、時に玉樹香文堂)の年賀状(大正6年)を挙げていたので、店主玉樹安造(号芦城)に関する下書きがあるのを思い出した。もう少し調べてからアップするつもりで下書きにしておいたのであろう。しかし、忘れないうちに公開しておこう。

 肥田晧三「大阪で出来た異色の本ーー大阪出版一夕話ーー」『大阪府立図書館紀要』10号(大阪府立図書館、昭和49年3月)には、玉樹香文房の玉樹安造に関する一節がある。

 香文房玉樹安造氏(芦城と号す)は、船場博労町の旧家の冨田屋の若旦那で、その家は桜のおしろい屋とて古くから著名な白粉商であった。大正十一年家業を廃して古典籍業に転じ、香文房を開業された。以後昭和二十二年に歿するまで大阪和本業界の別格的存在として終始した。もともと学芸に造詣があり、自分の趣味からこの道を選ばれたものゆえ、古書の鑑識にすぐれ、冨永仲基の「翁の文」を発掘したものも玉樹氏であった。玉樹氏にとって出版はあくまで余業であったが、大正十四年から昭和二年にかけて発行して[ママ]雑誌「典籍之研究」全六冊は、大阪出版史の上で逸することの出来ぬ重要なものになっている。(略)

 『典籍之研究』全6冊は持っているが、出てこない。ただ、揃いを入手する前に神戸古書倶楽部のとてちき堂で買った3号(典籍之研究社、大正14年11月)があるので、表紙と奥付を挙げておく。ゆまに書房から復刻版が出ているので、詳しく見たい方は図書館へ。

 古書目録である『古書時報』(大正11年12月創刊)*1の2号(大正12年1月)~6号(同年9月)も昨年唯書房から入手しているが、これまた見当たらない。トホホ(´・_・`)
 と思ったら、幸い見つかったので併せて表紙と裏表紙を挙げておきます。

*1:近代書誌懇話会編・鈴木宏宗解説『日本古書目録大年表:千代田区千代田図書館所蔵古書販売目録コレクション』(金沢文圃閣平成27年1月)には、昭和15年12月発行の同誌(1枚刷)まで記載がある。また、大阪府古書籍商業協同組合青年部翔の会編『大阪個人古書目録年表:自明治二十三年至昭和五十年 附大阪古書組合略年表』(大阪府古書籍商業協同組合、昭和58年7月)には、昭和17年7月発行の同誌(2頁)まで記載がある。

日本心霊学会の会員になると送られた『心霊秘条』と『会員之証』


 知恩寺秋の古本まつりは、2日目まで上京していたので3日目から参戦。三密堂書店が目録に挙げたものの注文の無かった分を並べた台に、渡辺藤交『呼吸式感応的治療秘書』*1(日本心霊学会本部、大正2年9月初版・12年8月14版)があった。日本心霊学会の最初の刊行物で記念すべき本だが、私は持っていない。しかし、国会図書館デジコレで読めるから買わなくてもいいかと、手にも取らなかった。
 ところが、翌日ある件で内容を確認したら驚いた。写真を挙げた『心霊秘条』や『会員之証』などが挟まっていたのである。これらは日本心霊学会に入会すると、送られたのであろう。これで4,400円は安いと購入。『会員之証』(大正12年10月24日付け)に書かれた三上某については、調査中である。日本心霊学会出版部を前身とする人文書院が創立されて100周年を記念する論文集である栗田英彦編『「日本心霊学会」研究:霊術団体から学術出版への道』(人文書院、令和4年10月)のインパクトあるカバーの写真は大正5年のものなので、この中には三上某宛の封筒は無いことになる*2

*1:函には『呼吸式治療秘書』とある。

*2:カバーのキャプションに「山と積まれた日本心霊学会の会員名簿」とあるが、正確には「一周年記念号発送の光景」と思われる(『日本心霊』17号(日本心霊社、大正5年3月15日))。

『博覧』(龍谷ミュージアム)第4章「平瀬貝類博物館」への補足ーー京都にあったもう一つの博物会、京都府師範学校博物会ーー


 龍谷大学龍谷ミュージアムで大好評開催中の「博物ーー近代京都の集め見せる力ーー初期京都博覧会・西本願寺蒐覧会・仏教児童博物館・平瀬貝類博物館」も11月23日までの会期の終了が近づいてきました。他館への巡回はないので、お見逃しなく。仏教児童博物館*1や平瀬貝類博物館*2についてブログで紹介したことがある私には、特に楽しめる展覧会でした。将来「伝説の展覧会」になるのは、必至である。図録も豪華な内容で、和田秀寿学芸員一人で執筆したようだ。何とも博覧強記の逸材である。 
 さて、図録第4章「平瀬貝類博物館」に、大正2年に平瀬貝類博物館を創立する平瀬與一郎について、京都博物会の会員や会幹(幹事)であったことが記載されている。同会は、山本亡羊の物産会(山本読書室物産会)の流れを汲むもので、明治28年京都本草会から改称されたという。
 実は、明治末期の京都にはもう一つの博物会があって、與一郎も所属していた。これは、令和2年3月大阪古書会館の即売会で唯書房から入手した『博物雑誌』創刊号(京都府師範学校博物会、明治40年4月)の「本会録事」に記載されている。これによると、京都府師範学校博物会の会長は鈴木光愛(同校校長)で、名誉会員として牧野富太郎、三宅驥一、武田久吉、平瀬作五郎*3らのほか、與一郎の名前も載っている。会員には約320人が挙がっている。
 與一郎は、名前を挙げた名誉会員に比べると学歴や実績が劣るように見える。しかし、『博物雑誌』創刊の3か月前の明治40年1月に日本初の貝類研究誌『介類雑誌』(平瀬介館)を創刊しているし、京都博物会での活動を通じて京都府師範学校博物会の関係者によく知られた存在であったのだろう。『博物雑誌』1巻2号、明治40年9月の「著述」には、與一郎を「名ある介類学者なり」と紹介し、『介類雑誌』の要目も掲載されている。

 與一郎は『博物雑誌』創刊号及び2号には執筆していない。両号に執筆している人物としては、岸田久吉が注目される。この岸田は、ネットで読める下稲葉さやか・安田雅俊「日本哺乳動物学会と2人の哺乳類学者、黒田長禮と岸田久吉」によれば、明治21年舞鶴市生まれ、37年京都府師範学校本科第一部入学、41年卒業なので、同誌執筆時は同校の生徒だったことになる。その後、大正10年に東大理学部動物学科選科を卒業し、12年日本哺乳動物学会の創設メンバーに参加している。
 『博物雑誌』は、国会図書館サーチでヒットしないし、京都府師範学校の後身である京都教育大学の附属図書館にもない。貴重な雑誌を「たにまち月いち古書即売会」で見つけたようだ。