神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

東亜研究所の解散時期ーー昭和21年3月27日付け東亜研究所の昌谷忠海から小川寿一宛書簡よりーー


 今年一年、各地の古書店、京都・大阪の古本まつり、東京・大阪・京都の古書会館での古書展、臨川書店の古書バーゲンなどでお世話になりました。ありがとうございました。岡崎の平安蚤の市でも色々楽しませていただきました。
 今回は、今年最後の平安蚤の市で入手した東亜研究所の昌谷忠海から小川寿一宛書簡を紹介しよう。封筒には、2つの文書が入っていた。一つは、昭和21年3月27日付け大阪商大の小川宛通知文で、内容の一部を要約すると次のとおりである。なお、昌谷の肩書きは、「東亜研究所政治部思想班ソ連関係文献目録編纂担当」である。
・東亜研究所において作成中の『ロシヤ及ソ連邦関係文献目録』については戦時下の制約のため予定の期日に完成しなかった。しかし、諸方からの「出来上りカード」が集まりつつあった。
・ところが、諸般の事情により、3月一杯で研究所は一般業務を打ち切り、4月に解散することになった。
・手許にある「出来上りカード」については、薄謝を呈したいので至急送付されたい。
 もう一つは、「ロシヤ及ソ連邦関係文献目録編纂要旨」(東亜研究所第二部)で、「出来上りカード」も添付されていた。

 昌谷忠海(さかや・ただみ)は、『哀惜無限:昌谷忠海追悼遺稿録』(昌谷忠海追悼遺稿録刊行会、平成2年9月)の略歴譜によれば、昭和19年9月東京帝国大学文学部卒業後、東亜研究所第二部ソ連班に勤務し、『ソ連邦』翻訳や日本におけるロシア・ソ連文献カードの収集・整理に当たっていた。昭和21年3月*1の東亜研究所解散後は、日本民主主義文化連盟書記となっている。
 宛先の小川は、「では小林昌樹「戦時期ガラパゴス化の果てに見えた日本図書館界の課題」に補足してみようーーもう一つあった皇道図書館ーー - 神保町系オタオタ日記」でも言及した昭和16年京都で三田全信と共に日本図書館学会を創立した小川である。封筒に記載された京都市の住所は、『曽我物語:戸川本 巻11』(鴨長明学会、昭和16年11月)の奥付記載の住所と一致するので、同定できる。封筒には、「(大阪商科大学図書館)」との記載もあるが、『図書館人物事典』(日外アソシエーツ、平成29年9月)に立項された小川の経歴には記載がない。しかし、同図書館に勤務していて東亜研究所から依頼されたロシア・ソ連関係の文献の所蔵状況を調べていたのだろう。
 前記通知文の内容で最も驚くのは、財団法人東亜研究所の解散時期に関する記述である。同研究所は昭和21年3月以降同年中に解散したことは間違いないが、正確な解散時期は不明とされる。柘植秀臣『東亜研究所と私:戦中知識人の証言』(勁草書房、昭和54年7月)247頁によれば、昭和21年3月26日開催の理事会で解散が決議され、後継となる政治経済研究所の創立準備委員会による打ち合わせ会が6月7日から開かれ、8月14日に財団法人政治経済研究所の設立認可がされている。そのため、早ければ3月から6月までの間、遅くとも8月と推測できる。
 しかし、前記通知文によると4月解散の可能性があり、貴重な史料ということになる。近現代史の研究者で東亜研究所に関心を持つものは多いと思われるので、専門店の古書目録に挙がっていれば幾らの値段が付いただろうか。
追記:ネットで読める渡辺新「東亜研究所小史」『政経研究時報』No.13-特別号(政治経済研究所、平成22年3月)によれば、昭和21年3月31日に解散認可がされている。

*1:根拠不明