神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

大正イマジュリイとしての『SHOCHIKUZA NEWS』(松竹座ニュース)ーー林哲夫『古本スケッチ帳』への補足ーー

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 平成24年常葉美術館で開催された「大正イマジュリィの世界展」と平成30年に日比谷図書文化館で開催された「大正モダーンズ展」を観ている。どちらにも『SHOCHIKUZA NEWS』が展示されていた。表紙のデザインが山田伸吉らによるもので、近年古書価が高い。その後下鴨神社の古本まつりで玉城文庫が同誌を均一台に出してくれたので、3冊持っていて冒頭に写真を挙げておいた。
 左から1巻18号(昭和3年12月31日)、3巻16号(昭和4年10月17日)、8巻19号(昭和5年10月31日)。いずれも、編輯兼発行人は蒲生重右衛門、発行所は浅草公園の松竹座編輯部、印刷所は丸ビル内の豊文社である。『松竹座ニュース』と呼ばれることが多いが、林哲夫『古本スケッチ帳』(青弓社、平成14年4月)の「『松竹座グラヒック』の文字」が「実見したかぎりでは誌名は英文『SHOCHIKUZA NEWS』」としているように、正式名称は英文と思われる。ただ、最近刊行された『MOGAモダンガール:クラブ化粧品・プラトン社のデザイン』(青幻舎、令和3年7月)には多くの同誌の裏表紙に掲載されたクラブ化粧品の広告が出ていて、そのキャプションは『SHOCHIKUZA NEWS』と『松竹座ニュース』が混在しているので、『松竹座ニュース』という誌名も存在しているようだ。
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 『道頓堀今昔ーー芝居画家山田伸吉の世界ーー』(関西大学大阪都市遺産研究センター、平成14年12月。ネットでも読める)によれば、同誌は大正12年5月大阪松竹座開場を契機に創刊された興行館のプログラムである。松竹合名会社大阪本社で制作され、大正13年から昭和5年まで表紙絵を手掛けた山田のほか、複数のデザイナーがいた。山田は、「SHIN」「Shin」「伸吉」「山田伸吉」のサインを用いたという。家蔵分には、「siwj」のサインのものが1冊あるが、誰なのかは不明である。
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 ネットで読める西村美香1920年代日本の映画ポスター:松竹合名会社山田伸吉の作品について」は、山田以外のサインについて、「SIWJ」のほか多くの例をあげ、重複を考えても山田の他に少なくとも10人前後の図案家がいたと見られるとしている。
 玉城文庫からは、大正12年より前の松竹のプログラムも入手している。大正11年5月19日発行の『松竹ニウス』43号で、表紙に『SHOCHIKU NEWS』とある。編輯兼発行人は岩佐彌太郎で、発行所は大阪のミカド印刷である。
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『静岡県印刷文化史』(静岡県印刷工業組合)を読む

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 12月14日(火)静岡市清水区の浜田生涯学習交流館で小二田誠二先生の講演「静岡印刷文化史」が開催されるとのこと。申込み受付中。詳しくは、「静岡印刷文化史[静岡市清水区]|アットエス」参照。お近くの人は是非行きましょう。
 その関係で、Twitterで『静岡県印刷文化史』(静岡県印刷工業組合、昭和42年11月)が話題になった。いつ買ったのか不明だが、私も持っている。目録注文だったと思う。ざっと読んでみると、「五 江戸時代平民文学と郷土の文人」中の「静岡県の俳壇史 駿府の時雨窓と六花庵其他」に贄川他石が出てきた。

贄川他石 (沼津市)駿東郡清水村の人。名は邦作。凌頂門。池上庵と号し、三世孤山堂を嗣いだ。日本名著全集の内の「芭蕉全集」「俳文俳句集」及び俳句講座中の「連句作法」「去来俳句新釈」「六花庵三代」「去来抄と三冊子」其他「真珠白珠」「寒稽古」「卯杖」「三陀羅尼」の著がある。県会議員や静岡県町村長会長も務め、実業家でもあったが、俳文学界の業績は専門家以上であった。昭和十年十二月没。行年六十八。

 これで、他石の俳人野田別天楼宛絵葉書を持っていることを思い出した。「俳人野田別天楼宛多田莎平の葉書を拾う - 神保町系オタオタ日記」で言及した別天楼宛絵葉書が出回っていた頃、入手したものである。大正11年8月4日の消印である。しかし、「一寸なりとも上京したく」の他は文面がさっぱり読めないので放置していたものである。各自判読してください。
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 『静岡県印刷文化史』は、「八 静岡県印刷出版文化史年表」も面白い。幾つか記述を引用すると、

明治一〇年 ◎静岡札ノ辻に新聞縦覧社[ママ]ができた。
明治四二年 ◎此ころ雑誌の発行が盛んになる。「ふた葉(小笠加茂村雑誌会)萩華(萩間村青年)同窓偶語「(朝比奈村青年会)。「堰南文芸(川崎 大石活版所)「榛原郡勧業時報(月刊同社)「茶業之友(月刊同社)」「榛原郡教育時報(年三回教育会)」
昭和二年 静岡文芸家連盟組織され会報創刊
昭和四年 静岡県政史話 静岡県編 刊行後回収して焼却

 明治42年の雑誌発行が盛んになるとかは、特に気になりますね。続く誌名が関係があるのかは不明である。あと、西ヶ谷潔らが『本道楽』*1を創刊した大正15年に「白隠と夜船閑話 野村瑞城」とある。この『白隠と夜船閑話』は、京都の日本心霊学会が発行したもので印刷も京都である。白隠静岡県ゆかりの人物なので、挙げているのだろう。他にも、静岡県で発行・印刷されていない本が含まれているかもしれない。
 静岡というと、何と言っても書物蔵氏が『文献継承』14号(金沢文圃閣、平成21年6月)の「古本界の重爆撃機!:『古本年鑑』と古典社の渡辺太郎附.年譜」で紹介した沼津の古典社が浮かぶ。しかし、年表に昭和5年創刊の『図書週報』や昭和8年から刊行が始まった『古本年鑑』などが含まれていないのは残念である。

明治40年8月夷谷座で活動写真「祇園祭」を観る少年の日記

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 明治41年京都初の映画常設館である電気館で活動写真を観た青年の日記は、「明治41年京都初の映画常設館電気館で活動写真を観る青年の日記 - 神保町系オタオタ日記」で紹介したところである。今回は、明治40年南座や夷谷座で活動写真を観た少年の日記にしよう。少年は、明治28年生まれで、第五高等小学校に通っていたが明治40年6月に退校している。日記の記述の多くは学校での授業の様子で、たまに娯楽や家庭での描写が混じる。また、しばしば挿絵が描かれているのが特徴である。書砦・梁山泊の島元さんからいただいた。
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 まずは、南座に関する記述から。写真をあげておく。「十二日モ商用ニテ休ミマシタ」とあり、続きは1月15日なので、同月13日か14日の日記ということになる。『近代歌舞伎年表京都篇5巻』(八木書店、平成11年3月)によると、南座では明治39年12月31日から40年1月16日まで横田商会の世界パック活動写真が上映された。『京都日出新聞』同月11日に「昨夜より桑港の大地震、滑稽汽車栗毛、婦人百面相、其他十数枚の新着写真を加へたる由」とあるらしい。日記には汽車の絵が描かれていて、記事中の「滑稽汽車栗毛」に当たるのかもしれない。
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 もう一つは、夷谷座である。こちらは、やや詳しい記述である。前記『近代歌舞伎年表』によると、8月1日から25日にかけて、横田商会の活動写真が上映された。京都日出新聞の記事で確認できる作品は、「アルプス山大探険、英国貴族の野猪狩、及びお伽芝居浮かれ閻魔など」(同紙7月31日)、「本日より左記の新写真を加へると。祇園祭、悲劇ピストル一発少女の胆略、盲人と愛犬の報恩、夜の海」(同紙8月6日)、「昨夜より世界一の海水浴場、諸芸大会、平和踊、乳母車、滑稽小児等の写真に替へた」(同紙8月15日)であるという。少年が観た作品は、「祇園祭」以外は『京都日出新聞』では確認できないものなので、貴重な記録になっている。

龍谷大学予科英語講師壽岳文章がホイットマンの詩を贈った梅原眞隆の個人雑誌『道』

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 梅原眞隆の個人雑誌『道』は、昭和8年9月100号に達した。101号以降にそれを祝した会員からの書簡等が記載された。その中に壽岳文章の名前があって、目を惹いた。104号、昭和9年1月の「随喜(本誌)百號記念」欄である。大西良慶、相馬御風、多田鼎らが和歌、俳句や漢詩を贈る中、壽岳はホイットマンの「大道の歌」の一節を引いている。

さあ行かう!道は我々の前にある!心配はいらぬーー私がそれをためしてみた、わたしのこの足がそれを十分にためしてみたーーはぐれるなよ。

 壽岳は、昭和6年1月から7年12月まで柳宗悦と共に雑誌『ブレイクとホヰットマン』を24冊刊行していた。梅原の誌名『道』にかけて、エールを送ったのだろう。壽岳と梅原の関係は、『壽岳文章書物論集成』(沖積舎、平成元年7月)の年譜に昭和3年4月「龍谷大学にも出講」とあるので、その時からだろうか。壽岳は予科の英語講師で、梅原は文学部教授であった*1。後に壽岳と共に『和紙談叢』(昭和12年2月)や『和紙研究』(14年1月~)の創立メンバーとなる禿氏祐祥も文学部教授であった。
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*1:龍谷大学一覧:昭和三年七月現在』(龍谷大学、昭和三年八月)で確認

明治41年8月退局後京都市紀念動物園へ行くある公務員の日記

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 本題に入る前に「平安神宮前の古本市で見つけた大正13年京都帝国大学工学部土木工学科入学生(?)のアルバムを調べた - 神保町系オタオタ日記」で言及した大正13年に撮影された京都帝国大学の建物について。中島先生から『京都大学建築八十年のあゆみ』(京都大学広報委員会、昭和52年6月)に載っている旨御教示いただきました。ありがとうございます。
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 コタツの上に出していながら埋もれて見るのを忘れてました。さっそく見てみると、何と旧本部本館(現京都大学百周年時計台記念館)ではないか。正面からは何十回と見ているのに、側面は全然記憶になかった。面白いのは、竣工は大正14年なので撮影された大正13年2月ではまだ工事中だったはずだ。それで、アルバムの旧蔵者は見栄えのするはずの正面から撮らなかったのだろう。
 さて、先日「戦後京都の『色』はアメリカにあった!』のスピンオフ企画トーク「戦後、京都岡崎の『色』」に、戦後占領軍に一部接収された京都市紀念動物園(明治36年4月開園。現京都市動物園)の話が出ていた。それで、明治期に動物園を訪れた記録のある日記を持っていることを思い出した。「明治41年京都御苑内の京都府立図書館で法学を勉強する若者がいた - 神保町系オタオタ日記」で言及した京都府立図書館で法学を勉強していた公務員の日記である。冒頭に写真を挙げておいた。上京区川端丸太町の京都税務監督局に勤めていた青年なので、動物園はすぐ近くにあったことになる。
 瀧澤晃夫『京都岡崎動物園の記録』(瀧澤晃夫、昭和61年5月)に『京都市紀念動物園案内』(明治38年)から順路に従った動物舎が記載されている。これと日記を比較すると必ずしも順路に従って見学していないことが分かる。最初に見た「はぶ」はどこで見たのだろうか。
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知恩寺秋の古本まつりで御成婚記念千葉県図書館長の廿日出逸暁に出会うーー梅原真隆の『道』と廿日出逸暁ーー

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 知恩寺秋の古本まつりで其中堂から入手した梅原真隆の個人雑誌『道』(親鸞聖人研究発行所、のち道発行所)を見ていたら、廿日出逸暁(はつかで・いつあき)の名前が出てきて驚いた。一つは、125号,昭和10年10月の「道味」欄で、金剛山に来た廿日出からの「去三日以来の私生活ですが元気で御座います」という内容の書簡が掲載されている。もう一つは、127号,昭和10年12月の「知友消息」欄で、「○廿日出逸暁氏 千葉図書館に就任」とある。
 戦前の知識人には寺の出身者が多いので、廿日出もそうだったのかと思ってしまった。しかし、廿日出『図書館活動の拡張とその背景ーー私の図書館生活50年ーー』(図書館生活50年記念刊行会、昭和56年2月)の「まえがき」に、「私は風光に恵まれた景勝地、瀬戸内海の南を受けた島のみかん畑に囲まれた、百姓の五男三女の末子として生れました」とある。寺の出身ではなかったようだ。
 廿日出は、略年譜では、明治34年広島県豊田郡豊町生まれで。大正14年龍谷大学文学部社会学卒業。おそらく、龍谷大学教授だった梅原とその時知り合ったのだろう。廿日出は、その後帝国図書館嘱託、御成婚記念千葉県図書館長などを務めることになる。
 実は、知恩寺の古本まつりでは、竹岡書店の3冊500円コーナーから廿日出旧蔵書も見つけている。冒頭に写真を挙げた『宗教現象の心理学的研究』である。表紙には「岩井教授/心理学概論/廿日出逸暁」と書かれた付箋が貼られている。
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 内容は、「縁起ノ一考察」で、末尾に「廿日出逸暁/謹書完」とあって、岩井教授の論文を筆写したものかもしれない。心理学の岩井というと、「京都帝国大学文学部心理学教室第三代教授岩井勝二郎の日記ーー書砦・梁山泊から貰った日記にビックリーー - 神保町系オタオタ日記」で言及した京都帝国大学文学部心理学教室の岩井勝二郎助教授が連想される。ただし、闘病中の岩井が教授になったのは、昭和12年の死の前日なので「岩井教授」が岩井勝二郎の可能性は低いと思われる。そうなると、「岩井教授」は誰だということになるが、さっぱり分からない。
追記:『龍谷大学三百五十年史 通史編上巻』(龍谷大学、平成12年3月)634頁に大正11年龍谷大学文学部開講時の講座が出ていて、心理学概論の講師として岩井勝二郎の名前がある。
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キリスト教社会主義者三浦清一(石川啄木の妹光子の夫)と『道』の梅原真隆

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 だいぶ前に太田心海『自叙で綴る梅原真隆の生涯』(『梅原真隆の生涯』刊行会、平成25年7月)だったと思うが、次のような一節を読んだ。梅原が大正14年6月に創刊した個人雑誌『道』に掲載された書簡に関する記述である。

便りの発信人の中には、もちろん彼の講話を直接聞いたり、長い交際のある人も多いが、中には珍しい人の例も載せられている。例えば、熊本の阿蘇山の麓でキリスト教の牧師をしている三浦清一という人である。梅原の『晩年の親鸞聖人』という本を読んで大きな感銘を受けた喜びを述べ、感謝の意を表するものである。ちなみにその三浦牧師は、夫人の父が詩人石川啄木の弟だとのことである。

 調べてみると、正しくは三浦牧師の妻光子が啄木の妹である。この三浦の書簡が載った『道』を読みたいと思ったものの、掲載号の記載がないし、『道』を所蔵する図書館は大谷大学図書館ぐらいなので、それっきり忘れていた。ところが、先日の知恩寺の古本まつりで其中堂が『道』合冊版を1冊500円で出していた。貧乏なので最終日まで待っていたら、売れ残っていて2冊500円に値下げされたので、数冊買ってみた。幸い入手した192号(道発行所、昭和16年5月)に掲載されているのを発見できた。
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 確かに『晩年の親鸞聖人』を「非常なる興味をそゝられて」読んだことが記されている。また、「妻は亦禅宗の僧侶を父とし(石川啄木といふ歌人はその兄です)」とあって、三浦の書き方が悪いが、前掲書は「その」を妻の父を指すと解したのだろう。
 藤坂信子『羊の闘い:三浦清一牧師とその時代』(熊本日日新聞社、平成17年8月)によれば、キリスト教社会主義者だった三浦牧師は、昭和16年12月治安維持法違反で逮捕され、獄中で「皇道主義者」に転向したような文章を残しているという。三浦は梅原の著書を読んで転向したというわけではないが、「少年時代を真宗の家庭で過し」ていたし、梅原の親鸞思想が治安維持法違反者に与えた影響に言及した内手弘太「真宗本願寺派の教学と日本主義ーー梅原真隆を通してーー」*1を読んでいたので、三浦と梅原の関係は興味深かった。
参考:「京大文学部哲学科の宗教学専攻初代卒業生だった瀧浦文彌のキリスト教人生ーー石川啄木の代用教員時代の同僚上野さめの夫ーー - 神保町系オタオタ日記

*1:石井公威監修、近藤俊太郎・名和達宣編『近代の仏教思想と日本主義』(法藏館、令和2年9月)所収