神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

俳人野田別天楼宛多田莎平の葉書を拾う

天神さんで拾った野田別天楼(武庫郡御影報徳商業学校)宛の多田莎平(尼崎市営住宅)の絵葉書。野田が学校の先生らしいことと名前が面白いので買ってみた。報徳商業学校は西宮にある報徳学園高等学校の前身。消印は年不明だが、8月25日。「郵便はかき」で仕切線は2分の1、切手は田沢切手の1銭5厘。写真のキャプションは、「(赤穂三崎名所)社頭ノ奇岩ト唐船島ノ遠望 (不許複製)翠浦堂蔵版」。
野田は未知の人物だったが、『岡山県歴史人物事典』(山陽新聞社、平成6年10月)によると、

野田別天楼 俳人・教育者
明治2年5月24日 岡山県邑久郡磯上村生、本名要吉
俳句は明治22年頃から始め、子規は「明治29年の俳句界」で別天楼の作品を秀整と評した。
大正9年 第一句集『雁来紅』上梓
大正11年 報徳商業学校*1校長
昭和5年俳人真蹟全集』「談林時代」を担当、俳文学者としての活躍も注目された。
昭和19年9月26日 六甲山麓の自宅で没、享年76

岡山県出身だが、兵庫県で活躍した俳人のようだ。また、『報徳学園五十年小史』(報徳学園昭和36年10月)の「学校沿革」によれば、

大正11年12月 三代目校長野田要吉(別天楼)就任
13年3月 私立報徳商業学校と改称
昭和7年3月 校長辞任
同年4月 学校は神戸市灘区青谷町に移転

これからいくと、この葉書は大正13年3月から昭和6年8月までに投函された葉書と推測できる。
一方、多田の方は住友陽文「知識人と娯楽ーー多田莎平と萱野三平顕彰運動ーー」『地域史研究』21巻2号(尼崎市立地域研究史料館、平成4年2月)によると、

明治22年 兵庫県揖保郡龍野町東本願寺派円光寺多田実了の長男として生まれる。
赤穂尋常小学校卒業後、龍野高等小学校、龍野中学校へ進学。中学校を中退後、尾崎行雄を会長とする大日本国民中学校(通信教育)に入学。
尋常小学校や実業補習学校の訓導を務め、一旦民間会社に就職するが、尼崎市で教壇に復帰。尼崎第二尋常小学校などで教鞭を執りながら、俳句創作に一層熱意を燃やす。昭和初期に『ちゝり』『コスモス』『二つの竹』の句誌を創刊。教壇を降りた後尼崎市立図書館長。

尼崎市立図書館長の件については、『50年のあゆみーー年表と統計ーー』(尼崎市立図書館、昭和46年3月)を見ると、本名の多田喜久二で昭和9年4月から12年2月まで館長事務取扱として出ていた。在任中の出来事としては、11年9月に館員の親睦機関として尚和会が設立されている。俳人実は図書館長だったわけだが、短期間地方の図書館長を務めたぐらいでは新刊の『図書館人物事典』(日外アソシエーツ)には出てこんだろうなあ。『初暦:多田莎平遺句集』(多田文子、平成4年)などを見れば、多田のより詳しい経歴がわかるかもしれない。
葉書の文面は、全部は判読できず、久方ぶりに赤穂を訪問したこと、江山社で野田の講話を聞いたこと、神戸の放光庵で野田の講話を聞こうと思って行ったが来会せず残念だったことなどが書かれているようだ。なお、野田宛葉書は他に4枚入手している。
俳人ということで、余りわし向きのネタは出て来なかったが、『南木芳太郎日記三ーー大阪郷土研究の先覚者ーー』(大阪市史料調査会、平成26年8月)を読んでると驚いた。

(昭和十二年)
一月十一日
(略)三時十五分前、多田莎平氏に遇ふ。別天楼・虚明・来布君等に逢ふ。多田氏と一緒にて車中にて、三平の原稿に就て語合ひ天下茶屋にて別かれる。(略)
(昭和十三年)
六月二十七日
(略)
野田別天楼氏及多田莎平氏にも手紙認める。
(略)

「三平の原稿」とは、南木が編輯兼発行人を務めた『上方』75号(創元社昭和12年3月)に載った多田の「「萱野三平」を一読して」の原稿と思われる。わしが興味を持つ人物はみんな繋がって来るなあ。

図書館人物事典

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*1:正しくは、当時は報徳実業学校