神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

京大文学部哲学科の宗教学専攻初代卒業生だった瀧浦文彌のキリスト教人生ーー石川啄木の代用教員時代の同僚上野さめの夫ーー

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 今日は本来なら下鴨納涼古本まつり3日目だったはずの8月13日。開催されていれば、均一台を中心に掘り出して、レジ袋に一杯詰め込んで帰宅していただろうなあ。
 さて、気を取り直そう。ブログでは本論にあまり関係のない人名もできるだけ言及している。今回それが役に立った。あらためて「富士正晴らに同人雑誌『三人』の発行を認めた第三高等学校教授平田元吉 - 神保町系オタオタ日記」を読んだら、『会報』14号(三高同窓会、昭和17年10月)に平田元吉の訃報と共に瀧浦文彌の訃報も載っていることが書かれていた。厚生書店から100円で買った状態の悪い雑誌だが、平田や瀧浦の訃報が載っているし、三高のOBである考古学者谷井済一の旧蔵書だったということで、3000円位の価値はあるぞ。
 この三高同窓会会報の訃報は、略歴が比較的詳しいのと遺族の回想も載るので役に立つ。瀧浦の経歴については、「京都で単純生活社を創設したキリスト者瀧浦文彌の「丹田十字架」ーー『腹を錬る:夜船閑話通解と根本的治病法信仰鍛錬法』と『平田式心療法』からーー - 神保町系オタオタ日記」で言及したところだが、改めて同誌から引用しておこう。

明治17年12月 仙台市
同39年7月 第二高等学校第二部卒業
同42年7月 京都帝国大学文科大学哲学科卒業
大正4年3月 任陸軍歩兵少尉
同11年12月 第三高等学校哲学科講師嘱託
同12年2月 任第三高等学校教授
同15年3月 依願免本官

 この他、遺族の瀧浦和男によると、
・第二高等学校理科時代の明治36年8月盛岡市下橋日本基督教会で受洗
明治42年大学卒業後、京都府立二中嘱託を経て、和歌山耐久中学校教頭
明治44年近衛師団第二聯隊に入隊。45年除隊後、直ちに東京基督教青年会同盟主事となり、大正5年まで学生部主任を担当
山形県鶴岡中学校教頭を経て、大正7年京都基督教青年会同盟学生部主任、続いて京都市青年会総主事となり、11年まで青年会事業を通じて、伝道に従事
大正11年12月から15年3月まで第三高等学校教授兼生徒監となり、青少年の教育や伝道における寄宿舎の重大性を痛感。自ら寄宿舎を経営するため三高を辞職。
・大正15年4月下鴨膳部町の自宅に単純生活社と童信寮を開設。著書出版、機関紙『単純生活』*1を発行。
昭和2年3月 三男恵三を失って間もなく童信寮を閉鎖、記念事業として上賀茂に恵美日曜学校を開校、6年には恵美幼稚園を創立
昭和17年2月3日逝去
 これで色々なことが判明した。第二高等学校の入学年を確認しようと一覧の文科生を探して見つからなかったが、まさかの理科だった。第三高等学校教授を辞めた理由が、自ら寄宿舎を開設するためだったことも判明した。その寄宿舎も子供の死後に閉鎖し、代わりに幼稚園を設立していた。この恵美幼稚園は平成9年まで存在していた。「キリスト教共助会 – キリスト教共助会のオフィシャルサイト」の「心に残るメッセージ」に、和男の妻で3代目園長となった緑の経歴が載っている。
 なお、瀧浦の妻さめは、旧姓を上野といい、石川啄木が渋民尋常高等小学校の代用教員だった時の同僚である。啄木の研究者には、よく知られた存在のようだ。
 『京都大学文学部卒業生名簿』(京大倶楽部、昭和30年4月)には、宗教学専攻の初代の卒業生として瀧浦の名がある。学生時代には松本文三郎教授がいたので、松本の指導を受けたのだろうか。宗教学の講師には、シドニー・ルイス・ギューリックと薗田宗恵の名がある。
 初代の宗教学専攻者が平田内蔵吉と共著で『平田式心療法』を出していたことになる。吉永さんが霊術家の研究をするのもある意味で、運命だったのだ。
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*1:熊本県立図書館が9冊所蔵している。