神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

壽岳文章にとっての瞼の詩人エドモンド・ブランデン

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四天王寺秋の大古本まつりで古書クロックワーク出品の『文学会報』2号を拾ったことは、「古書クロックワークから壽岳文章「随想『手紙』」掲載の『文学会報』2号(関西学院大学文学会)を - 神保町系オタオタ日記」で紹介したところである。今回は、同誌4号(関西学院大学文学会、昭和25年6月)を紹介。巻頭に壽岳文章「瞼の詩人」が載っているので購入、200円。

思ひ出を語れば盡きないが、中でもひときは忘れられないのは去年の十月二十八日のことである。前日には、あの感激にみちた校歌の発表式が関学の講堂で行はれた。ノルマンさん*1の家でゆつくり一夜をあかした詩人を誘つて、その日のあさ、神戸女学院に赴き、チャペル後、「ハムレット」についての原稿なしの手放し講演をして貰つた。私が通訳したのは、前にデュ・ボアと云ふ仏人系黒人の著述家がアメリカから来たときと、これもただの二度である。まことに冷汗ものだつたが、ブランデンさんは喜んでくれ、いかにも楽しさうであつた。(略)

詩人エドモンド・ブランデンについては、Wikipediaを参照されたい。それに補足すれば、『関西学院事典』(関西学院平成26年9月増補改訂版)の壽岳の項に、

(略)戦後の1948年の新制大学発足に伴い、文学部英文学科教授となり、英文学史、英文学購読を担当。49年、関西学院創立60周年に際して、親交のあった高名な英国の詩人E.ブランデンに作詞を依頼し、新校歌“A Song for Kwansei”が披露される。(略)

とある。また、中島俊郎文化遺産としての向日庵ーー過去を見つめ、未来を見すえる「開かれた場」ーー」『向日庵2』(向日庵、平成31年2月)には、

文章先生が訳されたギルバート・ホワイトの名著『セルボーン博物誌』の中に、英国詩人エドモンド・ブランデンが序文を書いています。ブランデンは東京大学の英文科教授で、多くの教え子から崇拝された教師でありました。そのブランデンは大変な酒好きで、壽岳先生から近くにサントリー醸造所があるから飛んでこい、という誘いに惹きつけられ向日庵を訪れたという逸話を残しています。ブランデンは原爆ドームの石碑に平和を祈る詩文を捧げますが、訳詩をつけたのが文章先生であります。(略)

ところで、壽岳については、『壽岳文章書誌』(寿岳文章書誌刊行会、昭和60年1月)という詳細な書誌がある。刊行会の代表は、布川角左衛門。協力者が豪華なので、写真を挙げておく。
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今回入手した「瞼の詩人」も同書誌に記載されている。しかし、『文学会報』2号の「随想『手紙』」や「壽岳文章と芸艸堂 - 神保町系オタオタ日記」で紹介した『ブレイクの画論』(芸艸堂、昭和4年)や「カバラ(希伯来密教)の教義」『密教宗報』昭和2年8月は記載されていない。前掲書の「書誌の編集を終えて」によれば、

(略)われわれの場合は、正直にいってどの著作者の書誌づくりよりも楽であったと思う。(略)先生ご自身が著書著作を丹念に保存され、記録カード化されておられたからである。そして、それらの貴重な資料を惜しみなく使わせてくださったからである。(略)

壽岳作成の記録カードを利用しても、かなり記載漏れがあるようだ。現在では「国会図書館サーチ」や「ざっさくプラス」があるので、『壽岳文章書誌』へ大幅に追加できるだろう。
なお、本誌に昭和25年4月「文学部専門科目時間割」が掲載されていたので、参考までに写真を挙げておきます。
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*1:ノルマン文学部英文学科教授

古本万歳万々歳、『支那征伐万歳節』(壮年倶楽部、明治27年)を掘り出す

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最近激戦区となっている大阪古書会館たにまち月いち古書即売会の古本横丁和本300円コーナー。数ヶ月前にそこで見つけた翠葉散史『支那征伐万歳節』(壮年倶楽部、明治27年8月)、6頁。表紙に発兌元として壮年倶楽部、裏表紙に「大日本書籍行商社出版書目」の広告があり、本書の書名も挙がっている。壮年倶楽部と大日本書籍行商社は実態としては同一と思われる。国会デジコレで見られる鉄甲将軍『金鵄勲章:一名・連戦連勝血汐の花』(明治27年10月)は壮年倶楽部発行、横江鉄窓『痛快節・時事警鐘』(明治27年4月)は同住所の大日本書籍行商社発兌である。どう使い分けていたのだろうか。
本書は「発禁になったオッペケペー節ーー永嶺重敏『オッペケペー節と明治』(文春新書)を読んでーー - 神保町系オタオタ日記」で言及したオッペケペー節と関係あるかと思って買ったが、直接は関係なかった。「東学党」「京城小戦」「王妃の涙」「豊島大海戦其一」「豊島[大]海戦其二」「松崎大尉 安城川の討死」「成歓塁」の7曲が収録されている。「凡て歌尾に帝国万歳万々歳を付して唱ひ玉へ」とあるので、帝国万歳節とも言うべき歌である。ちなみに、永嶺重敏オッペケペー節と明治』(文春新書、平成30年1月)に、

日清戦争中には、現存するだけでも二〇〇点以上にのぼるおびただしい数の音曲集が出版されているが、それらのほとんどは既存の流行歌の替え歌である。従来からの流行歌がさまざまな替え歌に作り替えられて、清兵の弱さを笑い、日本兵の勇敢さを称賛し、祝勝をことほぐ歌として再利用されている。使われた流行歌もさまざまで、都々逸や「かっぽれ」「大津絵節」から「トコトンヤレ節」「ホーカイ節」「縁かいな節」まで古今の流行歌が総動員されている。
そして、その中でも「オッペケペー節」は最も多く替え歌が作られた歌のひとつである。(略)

とある。本書も明治27年日清戦争開戦後発行された「二〇〇点以上にのぼるおびただしい数の音曲集」に含まれることになる。
なお、タイトルのルビがアレなので伏せました。

明治期の私塾正心學舎はどこにあったのか?

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即位礼正殿の儀に伴い学校歴史博物館の特別展「番組小学校の軌跡ーー京都の復興と教育・学区ーー その3発展」が無料なので、見てきた。番組小学校で思い出したのが、だいぶ前に学校歴史博物館近くの三密堂書店の100円均一台で見つけた『正心學舎規則』。京都の私塾かなあと拾ってみた。
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時期は不明だが、「民法商法刑法」が出てくるので、旧民法(明治23年)、旧商法(同年)、旧刑法(明治13年)の公布以降となり、明治23年以降のものと思われる。グーグルブックスで検索すると、新潟や岡山に同名の私塾があったようだ。京都で見つけたからと言っても京都の私塾に限らないわけで、博識の皆様何か御存知ないかしら。なお、同規則の「日課」を読むと、朝6時起床後9時まで読書、その後9時より8時まで随意勉強、8時より7時まで諸会など時系列が混乱している。転記ミスにしても酷過ぎるが、謎である。どこにあって、どういう私塾だったのか、いつか判明するだろうか。
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故河井寛次郎先生を偲ぶ会と京都民藝協会


古書店の好意で開催された50円均一祭で入手した「故河井寛次郎先生を偲ぶ会」の案内。内容は、「太田山荘会場案内図」、「展示作品目録」、「年譜」の4頁。発行所や発行年の記載はない。河井は、京都国立近代美術館編『河井寛次郎=KAWAI KANJIRO:川勝コレクション:京都国立近代美術館所蔵作品集』(光村推古書院、平成31年3月)の年譜によれば、昭和41年11月18日没、同年12月2日日本民藝協会葬を大徳寺真珠庵で開催。

入手した冊子の会場案内図にある「太田山荘」と「日本民藝協会」でググると、「京都民藝協会について」がヒット。「京都民藝協会の歩み」が出ていて、

昭和22年 京都民藝協会創立、初代会長に寿岳文章就任
昭和41年 協会内に青年部を結成
昭和59年 懇親茶会を「秋のつどい」に改め太田山荘で開催

とある。「会場案内図」には「青年部」も出てくるので、偲ぶ会は京都民藝協会が主催したのだろう。昭和41年中に開催されたのだろうか。
追記:『民藝』316号(日本民藝協会、昭和54年4月)の「昭和53年度各地協会報告(1)」に11月12日京都民藝協会が「故河井寛次郎先生を偲ぶ会(十三回忌)」を上賀茂太田山荘で開催した旨の記事がある。

京都スターブックス出品の戦前版『洛味』で美術記者黒田天外の没年を特定

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先日台風で延期となった京都マルイ秋の古本市をのぞいてきたら、戦前版の『洛味』を発見。5巻2号(洛味社、昭和14年4月)。発行人は、宮崎小次郎。戦後版はよく見かけるが、戦前版はあまり見ない。目次を見たら、「栗田英彦論文が『近代京都の美術工芸』(思文閣出版)に出てくるぞ - 神保町系オタオタ日記」で言及した美術記者黒田天外が書いていて、値段も500円なので衝動買い。京都スターブックス出品。
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帰ってから、黒田執筆の「青谷訪梅」と「移居」を見ると、どちらも漢詩でややガッカリ。しかし、「洛味クラブ掲示板」に4月10日までの入会者として「黒田天外(文士)」の名が挙がっていた。そう言えば、『近代京都の美術工芸 制作・流通・鑑賞』(思文閣出版)の中尾優衣「雑誌にみる近代京都の美術工芸ーー黒田天外の『日本美術と工芸』をめぐって」で、黒田の没年を昭和13年終わりから14年前半頃と推測していたことを思い出した。洛味クラブは「誕生の産声を挙げて僅かに一ヶ月」とあるので、黒田は昭和14年3月には生存していたと思われる。少なくとも昭和13年没の可能性は排除でき、昭和14年没に限定できた。『洛味』の後続号を見れば、「ペンををさめて」(編集後記)に訃報が載っているかもしれない。それは、中尾氏に任せておこう。
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参考までに、「洛味クラブ」の発起人名簿の写真も挙げておく。池田遙村、河井寛二[ママ]郎、福田平八郎、須田国太郎といった名前がある。
なお、本号の印刷所は「からふね屋印刷所の堀尾幸太郎と白川書院の臼井喜之介 - 神保町系オタオタ日記」などで言及した「からふね屋印刷所」であった。ここにもからふね屋が登場。

近代京都の美術工芸ー制作・流通・鑑賞ー

近代京都の美術工芸ー制作・流通・鑑賞ー

夢見る京都の昭和図書館と東枝書店の東枝吉兵衛

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戦前京都市中京区にあった昭和図書館については、「京都書籍雑誌商組合立昭和図書館 - 神保町系オタオタ日記」で紹介したところである。書物蔵さんが同図書館の絵葉書を持っているらしい。同図書館は、戦時中の建物疎開で岩倉に移され、戦後は岩倉農協が倉庫に使っていたという。近年岩倉の開発は著しいから現存しないだろうが、京都新聞あたりが取材してほしいものである。
さて、昭和図書館の初代館長を務めたのは、東枝書店の東枝吉兵衛である。下鴨納涼古本まつりで玉城文庫の3冊500円コーナーから東枝書店の発売図書総目録を見つけたので、写真を挙げておく。「大正二年一月廿日 新刊月報 一月号 臨時増刊」とあるので、毎月『新刊月報』を出し、臨時増刊として発売図書の総目録を出していたのだろう。東枝書店については、『京都書肆変遷史』に「東枝書店・律書房」として立項されているほか、ある本にかなり詳しく経歴が出てくる。明治36年貸本屋としてスタートし、40年に新本屋となった西川誠光堂を扱った松木貞夫『本屋一代記 京都西川誠光堂』(筑摩書房、昭和61年11月)である*1。同書から引用すると、

37頁
東枝書店は、下京区仏光寺通東洞院西入ルにあった。(略)東枝書店は東枝律書房とも言った。東枝の主人は、東枝吉兵衛といい、小売もやっていたが、東京の出版社の本の取次もかねていて、店先では新聞も売っていた。(略)
108頁
明治三十九年四月、(略)東枝書店主人、東枝吉兵衛が京都書籍商組合の組長に就任した。
貸本の種子本は、新本に関しては東枝書店をわずらわせていたから、吉兵衛の組長就任には、ハルも慎重派の吉之助も、ここらが新本に切り換える時期ではないかと心が動かされた。
114頁
東枝吉兵衛は、それ以来、大正十五年その職を後身に譲るまで、二十有余年にわたって業界のために力をつくした。
(略)
吉兵衛は、嘉永元年盛岡で生まれた。父は沢田有隣と言って、南部藩に仕える武士だった。(略)
331頁
(昭和四年)十一月三日、明治節のこの日、京都書籍雑誌商組合は、組合の社会事業の活動として、京都市中京区御池通河原町東入南側に「昭和図書館」を開いた。(略)組長の東枝吉兵衛の提案だった。
(略)
初代館長は東枝吉兵衛がこの任に当った。

取次業として西川誠光堂を支え、京都書籍商組合(後に京都書籍雑誌商組合)の長や昭和図書館長を務めた吉兵衛も、昭和9年に亡くなる。

361頁
昭和九年三月十三日、昭和図書館の講堂には読経が流れていた。
館長、東枝吉兵衛の追悼会であった。

戦前確かにあった昭和図書館、今も昭和図書館を夢見る老人はどこかにいるだろうか。
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*1:西川誠光堂にちなんで誠光社を立ち上げた堀部篤史氏の解説付きでちくま文庫化してほしい。

四天王寺秋の大古本まつりで良さげな日記『撫石荘日乗』を拾う

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天神さんの古本まつりも今日で終わり、次は百万遍知恩寺秋の古本まつりである。さて、今日は四天王寺秋の大古本まつり100円均一コーナーで見つけた日記の話。斎藤専吉『撫石荘日乗』上・下(耕作舎、平成14年12月)である。「日乗」に目が留まったが、背表紙に「芋傘 斎藤専吉」とあるのを「洋傘」と空目して、洋傘商の日記ではなあと思いつつ、目次を見ると明治28年から昭和37年までの日記だった。戦前の日記を読むのが好きなオタどん、無名の人の日記だが、100円だし、何か発見できるかもと、重いが買ってみた。
帰って略歴や解題を見ると、斎藤は明治9年愛知県渥美郡畠村生、小学校の校長で、田原の岡田虎二郎!や山本右太郎らと養蚕業や病害虫の研究にも取り組んだらしい。「芋傘」は号。また、「来郡した学者文人墨客」(日記に登場する人名だろう)として、清野謙次、宮川春汀、柴田常恵、小金井良精、大山柏、黒板勝美、中谷治宇二郎、荻原井泉水西村真次巌谷小波、後藤守一、太田水穂鈴木尚土屋文明大河内一男らが出てくる。錚々たるメンバーだ。古書価は高くないが、古本市、特に均一コーナーはこういう未知の文献に出会えるから、大学・在野を問わず、研究者はまめに通わねばいかんよ。
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